建立から旧藩時代までとは? わかりやすく解説

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建立から旧藩時代まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 11:32 UTC 版)

妙円寺 (日置市)」の記事における「建立から旧藩時代まで」の解説

薩摩戦国大名島津義弘戒名妙円寺殿齢自貞庵主」)の菩提寺である。禅寺であるため妙円禅寺、また妙圓寺とも記す。600年上の歴史があり、永平寺總持寺とを両本山に持つ曹洞宗の寺院として、毎年行われる節分祭鹿児島県内有数信者数誇っている。 元中7年1390年)、当時この地の支配者であった伊集院忠国十一男である石屋真梁によって、長州守護大名であった大内義弘の娘の供養のために建立された。ちなみに石屋応永元年1394年)に島津元久の命で福昌寺開山となった人物でもあり、現在も鹿児島県浸透している「しんこ団子」を考案したという説もある人物である。石屋の兄・南仲景周は広済寺開山となっており、若い頃石屋小僧として兄の下、広済寺勉学修行励んでいる。妙円寺福昌寺の兄寺にあたる。訳あって妙円寺が既に廃寺なりかけていた文明2年1470年)には、福昌寺6代住職・愚丘妙智(ぐきゅうみょうち)が来て必要なもの妙円寺移し仏像仏堂飾り元通りにして、それまで廃れていたもの全て復興しており、愚丘は妙円寺中興だと『薩藩名勝志』に書かれている歴代島津氏当主尊崇受けてきたが、島津義弘は特にこの寺に対す帰依厚く自分菩提寺妙円寺指定した義弘は、生前京都より仏師・康厳を招き、自らの姿を彫刻させ、その木像生きている義弘思い弔うよう指示して妙円寺500石を与え妙円寺にとってこの500石が最盛期寺領となり、義弘とその妻の墓所となったために薩摩藩中でも有数禅寺となった。「妙円寺詣り」の妙円寺とは本来この寺のことを指す。 寛永2年1625年正月寛延3年1750年6月14日火事起きており、天保6年1835年)には妙円寺全焼した神体である島津義弘木像一時窓院に安置され、後に再興され妙円寺へ再び戻された。その際行列は、当時大名行列小規模にした形式取っていた。ちなみに伊集院町文化財指定されている松崎勘助貞範の日記には、城下武士鹿児島城城主へ、元旦新年を祝う言葉述べるのと同じ作法で、伊集院郷士許可された者が神体である義弘木像に、新年を祝う言葉述べていたことが記されている。天保14年1843年)にまとめられた『三国名勝図会』には、妙円寺寺領375石と記されている。また、三国名勝図会』や『薩藩名勝志』には、寺の敷地内鎮守社という神社描かれている。

※この「建立から旧藩時代まで」の解説は、「妙円寺 (日置市)」の解説の一部です。
「建立から旧藩時代まで」を含む「妙円寺 (日置市)」の記事については、「妙円寺 (日置市)」の概要を参照ください。

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