建礼門院右京大夫との恋
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建礼門院右京大夫が記した『建礼門院右京大夫集』では、資盛は右京大夫の生涯の恋人であったとされる。二人の関係は治承元年(1177年)頃から始まったとされる。 平氏一門の都落ち直前、密かに右京大夫と会っていた資盛は、日頃からの口癖として彼女に以下のような事を言い残している。この頃の資盛は心の余裕のない様子だったという。 こういう世の中になったからには、自分の身が儚くなるであろう事は間違いないだろう。そうなったら、あなたは少しくらいは不憫に思ってくれるだろうか。たとえ何とも思わなくても、あなたと親しくなって長いつきあいだから、その情けで、後世を弔ってほしい。もし、命が今しばらくあったとしても、今はいっさい昔の身とは思わないと心に堅く決めている。そのわけは、それが不憫であるとか、名残が惜しい、あの人の事が気がかりなどと考え始めたら、思うだけでもきりがないであろうから。心弱さもどのようであるかと我ながら自信がないから、今後は何事も思い捨てて、どこの海にあってもあなたのところへ手紙を出したりするまいと決心しているので、おろそかに思って便りもしないとは思わないで下さい。万事、もう今から死んだと同じの身になったと心を決めたはずなのに、やはりともすれば以前の気持ちになってしまいそうなのが、とても口惜しい。 — 参考文献:『建礼門院右京大夫集』新潮日本古典集成 清経と維盛の入水を知った建礼門院右京大夫から慰める手紙を受け取った資盛は、「今はただ自分の命も今日明日の事なので、ものを思う事をやめようという心境です」と返事を送り、兄弟の死について、 「あるほどが あるにもあらぬ うちになほ かく憂きことを 見るぞかなしき」(生きていることが生きていることにもならない、この世のうちにあって、その上こんなつらい目にあうのは悲しいことです) などの3つの歌を贈った。これが右京大夫への最後の便りとなった。
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