建碑の事情
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中国でいう「石経」とは、朝廷の学府(太学)において五経の定本(正規のテキスト)を石に刻み、学習用の教科書兼学府のシンボルとして建てたものである。 実はこの時点で首都洛陽の学府には、わずか70年前の後漢の熹平4年(175年)に建てられた「熹平石経」が残っており(後漢と魏は首都が同じ)、事実彫られた文献はそちらとほぼ完全に重なっている。それにもかかわらず再び彫られたのは、漢代に起こった大論争「今古文論争」の影響によるものである。 当初漢では口伝などによって伝えられた経典を隷書で起こしたテキスト(今文)が使用されていたが、後に秦代の焚書政策を逃れて隠されていた秦以前の古文で書かれたテキスト(古文)が続々と発見され、そのどちらがより正しいテキストであるかについて大論争となった。その結果、今文テキストを正統とする今文派が勝利し、古文の学問は民間で行われた。魏になると、漢という国家の後ろ盾を失った今文の学は衰え、鄭玄や王粛らの古文の学問が重んぜられるようになったが、漢代に作られた熹平石経には当然ながら今文の経しか含まれていないため、古文の経典である『古文尚書』・『春秋左氏伝』を追加して熹平石経の横に建てた。これが「三体石経」である。
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建碑の事情
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この碑が建てられた時期は三国時代だが、この頃には蜀は既に滅亡し、続いて魏も司馬炎に禅譲して西晋となっており、もはや「三国」ではなくなっていた。 その中で存続していた呉は、かねてからの政治的混乱に加えて第4代皇帝である孫晧が臣下の粛清や強引な遷都などを行い、さらに有力武将であった陸抗(陸遜の子)も死んで反乱の動きも見えるなど、国力は衰退していた。 しかし孫晧は神秘思想に走ってその世界に閉じこもるようになり、国内で瑞兆が見つかったという怪しげな報告を受けては次々と恩赦や改元を繰り返した。 この碑が建てられたのも、そのような瑞兆報告によるものであった。正史『三国志』によれば、前年の天冊元年(275年)、後漢代の頃からせき止まっていた臨平湖の流れが急に復活した。地元の言い伝えでは湖の流れが止まれば天下が乱れ、復活すれば平和になると言われていた。また続いて同じ臨平湖のそばで、ある人が「呉真皇帝」と刻まれた小石を拾った。これらの報告を受け、呉が天下を統一して平和をもたらし、孫晧が真の皇帝になるという天のお告げである、と解釈した孫晧は喜び、大赦と改元を行った。さらにこの碑を記念として建て、「天が下された神のお告げの碑」という意味で「天発神讖碑」と名づけたという。なおこの時、孫晧は天下統一後に皇帝が行う封禅まで行っており、その記念として封禅国山碑を建てている。 しかし呉は4年後の天紀4年(280年)に滅亡し、同碑は孫晧の失政を語り継ぐ存在となった。
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建碑の事情
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:15 UTC 版)
碑文によれば、元初4年(117年)に隴西郡の馮氏(名は不明)という人が常山相に着任し、この碑の立てられた元氏県にやって来た。しかし、元氏の地はいなごや旱魃の害に見舞われ、ひどく荒廃してしまっていた。 聞けばこの常山の西の奥にある三公御語山という山には霊験あらたかな雨の神がいて、人々はこの神を祀ることで雨乞いをしていた。しかし最近、異民族である羌がたびたび侵入して来たり天災が連発したりしたために人々に余裕がなくなり、祭祀が行き届いていなかったというのである。 この話からいなごの害や旱魃はそのせいであろうということになったものの、三公御語山はあまりに奥地にある上悪路で行くことすら容易ではなく、現地まで行って祀るのは極めて難しかった。そこで馮は一計を案じ、元氏の東にある衡山という山で占いを行い、神殿を設置して三公御語山の神を勧請し祀ることにした。 するとたちまちのうちに雨が降り始め、元氏は飢饉から解放されて五穀豊穣となり、民も苦しむことがなくなった。このことと馮の機転を顕彰するため、常山および元氏の官吏たちが碑を建てることにした。これが「祀三公山碑」である。
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建碑の事情
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『史記』秦始皇本紀によれば、始皇帝は紀元前221年の建国の翌年から10年間のうち4回にわたって国内巡幸を行い、この際に七刻石を建碑したという。 この時巡幸し、建碑したのは主に東方・南方の地域であった。この地域は秦にとっては征服地であり、そこに重点的に建碑したのは被征服民に秦の絶対的権力を見せつける目的があったと考えられている。 のち二世皇帝も同様に巡幸を行い、父の刻石に自分の顕彰文を付け加えている。
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