碑文と書風とは? わかりやすく解説

碑文と書風

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 08:32 UTC 版)

嵩山三闕銘」の記事における「碑文と書風」の解説

碑文は太室石闕銘が隷書篆書混ぜ書き残り2つ篆書である。太室石闕銘は前半隷書部が1行9字27行、後半篆書部が1行9字21行。題額に「中嶽泰室陽城□□□」とある。損壊著しく、特に後半部かなりの部分判読不能である。少室石闕銘は1行4字22行で極めて保存状態がよく、全字が判読可能である。題額は「少室神道之闕」である。開母廟石闕銘は階段になっており、下段だけの部分では1行7字12行、二段になっている部分ではそれぞれの段で1行6字24行である。比較的よく残っているが、二段になった部分の上段の摩滅著しく判読不能である。 内容はいずれそれぞれの廟が祀っている嵩山の神、禹とその妃を顕彰したもので、最後に建造者の名前が列記されている。 書体隷書全盛時代にもかかわらず篆書なのは、神を祀る廟の門柱に彫る銘という宗教的な意識から、篆書の持つ権威性を求めたためと考えられる書風については太室石闕銘は隷書混じりであるものの、隷書部分にも篆書面影強く残る書風となっている。少室石闕銘・開母廟石闕銘はよく篆書筆法とらえており、隷書筆法強く反映されしまっている祀三公山碑比べるはるかに本来の篆書に近い。しかし一方で誤字もあり、生粋篆書でないことを思い知らされる

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碑文と書風

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:04 UTC 版)

高貞碑」の記事における「碑文と書風」の解説

碑文楷書で1行46字。全24行にわたるが、中央3行は戦後文化大革命による文化財破壊遭って家の敷石にされた際に失われた。現在この部分コンクリートつながれただけで、文字復元されていない。碑額には装飾調の篆書によって「魏故営州刺史懿侯高君之碑」と記されている。 内容被葬者の高貞の系譜語った後、生前業績建碑の事情を記す。六朝文章特徴的な駢儷文いわゆる四六駢儷体」に近い文体書かれ極めて華麗荘厳な雰囲気持っている書風いわゆる六朝楷書」と呼ばれる北朝でこの時代急速に発展遂げた独特の楷書体よる。六朝楷書多くは「方筆」と呼ばれる角ばった運筆法によっているが(「鄭文公碑」など一部を除く)、なかんずくこの高貞碑文字極めて力強く骨太のびのびとしていながら粗雑奔放に流れることがなく、緊密に整った方形の辞界の中に文字が収まるよう書かれている

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碑文と書風

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袁敞碑」の記事における「碑文と書風」の解説

碑文篆書で1行17字、全10行であるが、真ん中2行は丸い穴が穿たれているため1行15字である。碑額はなく、長方形の石にそのまま刻されている。保存状態劣悪で、まともに読むことの出来る字は真ん中中心に半分ほどしか残されていない内容上述出身地任官記述死去年だけで、それ以外記述一切存在しない墓碑碑文この他に字や氏族出自讃辞をつけるのが一般的で、一応彼が傍系ではあるが汝南袁氏2代目に当たり、きちんと公的記録に名が残っている人物であることを思うと、あまりに簡単に過ぎるものである書体篆書である理由に関しては、この碑の刻年が明らかでないこともあって結論見ていない(後述)。 書風については破損著しいため論ずるのが難しいが、秦代以降のものにしてはかなり元の篆書に近い姿をしていると見られる。ただし父親袁安碑同じよう誤字見られ、正式の篆書ではない。

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碑文と書風

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/10 08:39 UTC 版)

袁安碑」の記事における「碑文と書風」の解説

碑文篆書で1行16字、全10行であるが、真ん中2行は丸い穴が穿たれているため1行14字である。碑額はなく、長方形の石にそのまま刻されている。保存状態は一番下の字が全行欠けてはいるもののきわめて良好で、全文読むことが可能である。 内容上述出身地任官記述死去年が全てで、それ以上それ以下記述存在しない通常この他に必ず字(この場合召公」)、氏族出自(この場合舜と陳公室末裔)、讃辞などが入る墓碑碑文としては異例簡素さである。特に上述通り袁安著名な人物で、いかにも讃辞として使えそうな逸話転がっていることを考えれば不自然なくらいあっさりとしていると言える書体篆書である理由に関しては、この碑の刻年が明らかでないこともあって結論見ていない(後述)。 書風については秦代以降のものにしては祀三公山碑どのように角ばった部分などもなくかなり元の篆書に近い。しかし誤字かなりの割合見られ、やはり本物篆書でないことが分かる

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三体石経」の記事における「碑文と書風」の解説

碑文上述した通り古文篆書・隷書3つの書体により刻まれている。刻み方はまず1字について上から古文篆書隷書の順に刻み次の文字をまたその下に同じ順番で刻むという形式になっており、通して読もうとするとかなり煩雑である。断片のみが残されている状態のため、1行の字数および全体行数諸説あって不明である。 書風については学府教科書という性質上、模範性が優先されている感があり、同時代隷書碑や後代篆書碑に比べるとあまり個性らしい個性はない。古文部分当時古文による書をものした学者邯鄲淳のものと比べると劣るという。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:31 UTC 版)

天発神讖碑」の記事における「碑文と書風」の解説

碑文篆書よる。篆書用いたのは、篆書の持つ権威性や神秘性が「天のお告げ」を記念するのにふさわしいと判断してのことと考えられる発見時に既に断裂摩耗著しかったために1行の文字数不明である。行数21行であるが、そのままでは文が完結しておらず、最初からこの行数であったとは考えられない。元は1行18字、全22-24行程であった推測されている。 内容は呉の徳を讃美し、さらに前述した天から下されたお告げ」を「天発神讖文」として記したもので、極めて神がかった、現代的に言えばオカルティック文章となっている。 書風冒頭にも記した通り極めて特殊である。篆書の形を踏襲しているものの、線をいかつく角張らせて奇妙なめりはりをつけ、さらに払い丸く止めず鋭く針のように尖らせている。また文字転折(おれ)をわざと大きく書くなどして、字そのものに気味の悪さすら覚えるほどの威圧感持たせるなど、実際篆書とはかけ離れた書法取られている。このため奇怪の書」とされ、「篆書にも非ず隷書にも非ず」と評された。隷書用の筆で書いたためとも言われるが、定かではない。 書者は長らく呉の書家皇象考えられていたが、積極的な証拠がないため現在は書者不明とされている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:14 UTC 版)

爨龍顔碑」の記事における「碑文と書風」の解説

碑文楷書酷似し書体で1行45字、全24行。この他の裏建碑者の名前などが列記されている。碑額には本文と同じ楷書調の書体で「宋故龍驤将軍護鎮蛮校尉寧州刺史邛都県侯爨使君碑」と記されている。碑は表面磨耗激しいが、現在も何とか全文読むことが可能である。 内容被葬者・爨龍顔系譜語った後、生前業績建碑の事情を記す、典型的な墓碑銘墓誌銘スタイルをとる。六朝いわゆる四六駢儷体」に近い文体で、『論語』からの引用によって徳を讃えるなど非常に讃美色の強い内容となっている。 書風については、一見するとこの当時発展した独特の楷書六朝楷書」に見えるが、現在では完全な楷書ではなく、あくまで「六朝楷書」の味を付け加えた楷書風」の書体であると考えられている。異体字俗字極めて多く、非常に剛毅木訥野趣あふれたその書風ばかりでなく、漢民族王朝元中心地北朝本拠地である中原文化が、華南の奥までも浸透していたことを示す史料として興味深い書蹟である。

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碑文と書風

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張黒女墓誌」の記事における「碑文と書風」の解説

碑文構成に関しては、発見され時点で既に原石失われ剪装本使いやすい大きさ切って製本した拓本)のみしか知られていないため不明であるが、全部367字であることから、1行20字×20行程であった見られている。 内容墓碑墓誌決まり則って被葬者・張黒女系譜語った後、生前功績没年妻について記述、そして讃辞と続く。いずれも極めて簡単なのである書風いわゆる六朝楷書」に属するが、その中で個性的な書風である。六朝楷書代表的書蹟である「高貞碑」に似た鋭さ持ちながら、どこか柔らかさ持ち合わせており、純朴ながらも品格感じさせる逸品である。

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碑文と書風

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:13 UTC 版)

爨宝子碑」の記事における「碑文と書風」の解説

碑文隷書楷書中間のような独特の書体で、1行30字、全13行。碑額には本文と同じ書体で「晋故振威将軍建寧太守府君之墓」と記されている。 内容被葬者・爨宝子については軽く触れるにとどめており、前述通り没年表記すら存在しない上、具体的な功績についても書かれていない。そのほとんどは形式的とも言ってよい讃美終始しており、出自となった氏族系譜生前功績具体的に書かれるこの時代墓碑銘墓誌銘には珍しく内容があるとは言えないものとなっている。これについては、宝子がほとんど功績残さないままに夭折したためと思われる書風については極めて特殊である。隷書のような波磔(はたく、隷書独特の払い)や近似した書体見られる一方楷書のように正方形の辞界に収まる字形取っており、隷書楷書中間のような書風となっている。隷書から楷書への過渡期字形であるが、現在では当時石刻用いるために使われていた装飾字体一種として使用されたものと見られている。 異体字俗字極めて多く緊密ありながら大胆躍るのような明快な雰囲気を持つその書風は、王羲之などが華麗な行書ものする一方で辺境雲南地方ではこのような独特のアレンジが行われていたということを示すものであり、当時南朝書道界多様性を表す貴重な書蹟である。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:06 UTC 版)

谷朗碑」の記事における「碑文と書風」の解説

碑文楷書酷似し書体で1行24字、全18行。碑額には本文と同じ楷書調の書体で「呉故九眞太守府君之碑」と記されている。碑の状態は極めてよいが、拓本を見ると摩滅した文字がある時期から復活するなど後から覆刻した形跡があり、事実清代道光11年1831年)に県令が碑を改修したとの記録がある。このため刻され当時の姿のままではないと考えられている。 内容被葬者谷朗系譜語った後、生前業績記し最後に讃をつけるという典型的な墓碑銘墓誌銘スタイルをとる。 書風については、一見すると楷書見えるが、現在では完全な楷書ではなく前代隷書影響強くみられる書体とされ、その書体史上解釈について諸説あって定説がない(後述)。また異体字極めて多い碑でもある。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:15 UTC 版)

祀三公山碑」の記事における「碑文と書風」の解説

碑文篆書で1行17字から24字、全10行である。碑額はなく、長方形の石にそのまま刻されている。表面全体的に摩滅しているが、全文読むことが可能である。右上元号の1文字目が欠けて「□初」になってしまっているが、残され部分碑文の内容から「元初」であることが明らかである。 内容建碑の事情一通り語った後、最後に建碑賛同した官吏の名前を列記して終わるという極めてシンプルなのである書体隷書時代であるにもかかわらず篆書なのは、天や神に祈り感謝する宗教的な感情を示すために、篆書の持つ権威性を求めたためと考えられる書風については篆書ではあるものの、本来篆書特徴あるべき曲線部が極端に少なく直線非常に多いのが特徴である。また時折隷書に近い字や誤字思えるような字も散見され純粋な篆書とはいえないものとなっている。

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碑文と書風

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 13:53 UTC 版)

石門銘」の記事における「碑文と書風」の解説

碑文楷書で1行22字、全28行である。峻厳山道途中にもかかわらず極めてきれいな状態で残されている。 内容石門洞の歴史今回改修工事に至る経緯竣工後の道への讃辞続き最後に字句の讃をもって終わる。 書風いわゆる六朝楷書」である。ただし険し環境下で刻したためか、他の「方筆」を用いた角ばって緊密にしまった書風とは異なっており、やや「円筆」(角を丸め筆法)に近い書法をとり、横長自由奔放飄々とした印象を受けるものとなっている。北魏の書の多様性を知るよい史料である。

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