碑文と書風
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碑文は太室石闕銘が隷書と篆書の混ぜ書き、残り2つは篆書である。太室石闕銘は前半の隷書部が1行9字27行、後半の篆書部が1行9字21行。題額に「中嶽泰室陽城□□□」とある。損壊が著しく、特に後半部はかなりの部分が判読不能である。少室石闕銘は1行4字22行で極めて保存状態がよく、全字が判読可能である。題額は「少室神道之闕」である。開母廟石闕銘は階段状になっており、下段だけの部分では1行7字12行、二段になっている部分ではそれぞれの段で1行6字24行である。比較的よく残っているが、二段になった部分の上段の摩滅が著しく判読不能である。 内容はいずれもそれぞれの廟が祀っている嵩山の神、禹とその妃を顕彰したもので、最後に建造者の名前が列記されている。 書体が隷書全盛の時代にもかかわらず篆書なのは、神を祀る廟の門柱に彫る銘という宗教的な意識から、篆書の持つ権威性を求めたためと考えられる。 書風については太室石闕銘は隷書混じりであるものの、隷書部分にも篆書の面影が強く残る書風となっている。少室石闕銘・開母廟石闕銘はよく篆書の筆法をとらえており、隷書の筆法が強く反映されてしまっている祀三公山碑と比べるとはるかに本来の篆書に近い。しかし一方で誤字もあり、生粋の篆書でないことを思い知らされる。
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碑文と書風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:04 UTC 版)
碑文は楷書で1行46字。全24行にわたるが、中央3行は戦後文化大革命による文化財破壊に遭って家の敷石にされた際に失われた。現在この部分はコンクリートでつながれただけで、文字は復元されていない。碑額には装飾調の篆書によって「魏故営州刺史懿侯高君之碑」と記されている。 内容は被葬者の高貞の系譜を語った後、生前の業績、建碑の事情を記す。六朝の文章に特徴的な駢儷文、いわゆる「四六駢儷体」に近い文体で書かれ、極めて華麗で荘厳な雰囲気を持っている。 書風はいわゆる「六朝楷書」と呼ばれる、北朝でこの時代急速に発展を遂げた独特の楷書体による。六朝楷書の多くは「方筆」と呼ばれる角ばった運筆法によっているが(「鄭文公碑」など一部を除く)、なかんずくこの高貞碑の文字は極めて力強く骨太でのびのびとしていながら、粗雑・奔放に流れることがなく、緊密に整った方形の辞界の中に文字が収まるよう書かれている。
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碑文と書風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/10 08:47 UTC 版)
碑文は篆書で1行17字、全10行であるが、真ん中2行は丸い穴が穿たれているため1行15字である。碑額はなく、長方形の石にそのまま刻されている。保存状態は劣悪で、まともに読むことの出来る字は真ん中を中心に半分ほどしか残されていない。 内容は上述の出身地と任官記述、死去年だけで、それ以外の記述は一切存在しない。墓碑の碑文はこの他に字や氏族の出自、讃辞をつけるのが一般的で、一応彼が傍系ではあるが汝南袁氏の2代目に当たり、きちんと公的記録に名が残っている人物であることを思うと、あまりに簡単に過ぎるものである。 書体が篆書である理由に関しては、この碑の刻年が明らかでないこともあって結論を見ていない(後述)。 書風については破損が著しいため論ずるのが難しいが、秦代以降のものにしてはかなり元の篆書に近い姿をしていると見られる。ただし父親の袁安碑と同じように誤字も見られ、正式の篆書ではない。
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碑文と書風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/10 08:39 UTC 版)
碑文は篆書で1行16字、全10行であるが、真ん中2行は丸い穴が穿たれているため1行14字である。碑額はなく、長方形の石にそのまま刻されている。保存状態は一番下の字が全行欠けてはいるもののきわめて良好で、全文読むことが可能である。 内容は上述の出身地と任官記述、死去年が全てで、それ以上それ以下の記述は存在しない。通常この他に必ず字(この場合「召公」)、氏族の出自(この場合舜と陳公室の末裔)、讃辞などが入る墓碑の碑文としては異例の簡素さである。特に上述の通り袁安が著名な人物で、いかにも讃辞として使えそうな逸話が転がっていることを考えれば、不自然なくらいあっさりとしていると言える。 書体が篆書である理由に関しては、この碑の刻年が明らかでないこともあって結論を見ていない(後述)。 書風については秦代以降のものにしては、祀三公山碑などのように角ばった部分などもなくかなり元の篆書に近い。しかし誤字もかなりの割合で見られ、やはり本物の篆書でないことが分かる。
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碑文と書風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:12 UTC 版)
碑文は上述した通り古文・篆書・隷書の3つの書体により刻まれている。刻み方はまず1字について上から古文→篆書→隷書の順に刻み、次の文字をまたその下に同じ順番で刻むという形式になっており、通して読もうとするとかなり煩雑である。断片のみが残されている状態のため、1行の字数および全体の行数は諸説あって不明である。 書風については学府の教科書という性質上、模範性が優先されている感があり、同時代の隷書碑や後代の篆書碑に比べるとあまり個性らしい個性はない。古文の部分も当時古文による書をものした学者・邯鄲淳のものと比べると劣るという。
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碑文と書風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:31 UTC 版)
碑文は篆書による。篆書を用いたのは、篆書の持つ権威性や神秘性が「天のお告げ」を記念するのにふさわしいと判断してのことと考えられる。発見時に既に断裂し摩耗も著しかったために1行の文字数は不明である。行数は21行であるが、そのままでは文が完結しておらず、最初からこの行数であったとは考えられない。元は1行18字、全22-24行程度であったと推測されている。 内容は呉の徳を讃美し、さらに前述した「天から下されたお告げ」を「天発神讖文」として記したもので、極めて神がかった、現代的に言えばオカルティックな文章となっている。 書風は冒頭にも記した通り極めて特殊である。篆書の形を踏襲しているものの、線をいかつく角張らせて奇妙なめりはりをつけ、さらに払いを丸く止めずに鋭く針のように尖らせている。また文字の転折(おれ)をわざと大きく書くなどして、字そのものに気味の悪さすら覚えるほどの威圧感を持たせるなど、実際の篆書とはかけ離れた書法が取られている。このため「奇怪の書」とされ、「篆書にも非ず、隷書にも非ず」と評された。隷書用の筆で書いたためとも言われるが、定かではない。 書者は長らく呉の書家の皇象と考えられていたが、積極的な証拠がないため現在は書者不明とされている。
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碑文と書風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:14 UTC 版)
碑文は楷書に酷似した書体で1行45字、全24行。この他碑の裏に建碑者の名前などが列記されている。碑額には本文と同じ楷書調の書体で「宋故龍驤将軍護鎮蛮校尉寧州刺史邛都県侯爨使君碑」と記されている。碑は表面の磨耗が激しいが、現在も何とか全文読むことが可能である。 内容は被葬者・爨龍顔の系譜を語った後、生前の業績、建碑の事情を記す、典型的な墓碑銘・墓誌銘のスタイルをとる。六朝のいわゆる「四六駢儷体」に近い文体で、『論語』からの引用によって徳を讃えるなど非常に讃美色の強い内容となっている。 書風については、一見するとこの当時発展した独特の楷書「六朝楷書」に見えるが、現在では完全な楷書ではなく、あくまで「六朝楷書」の味を付け加えた「楷書風」の書体であると考えられている。異体字や俗字が極めて多く、非常に剛毅木訥で野趣にあふれたその書風ばかりでなく、漢民族王朝の元中心地で北朝の本拠地である中原の文化が、華南の奥までも浸透していたことを示す史料として興味深い書蹟である。
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碑文と書風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:33 UTC 版)
碑文の構成に関しては、発見された時点で既に原石が失われ、剪装本(使いやすい大きさに切って製本した拓本)のみしか知られていないため不明であるが、全部で367字であることから、1行20字×20行程度であったと見られている。 内容は墓碑・墓誌の決まりに則って、被葬者・張黒女の系譜を語った後、生前の功績と没年、妻についての記述、そして讃辞と続く。いずれも極めて簡単なものである。 書風はいわゆる「六朝楷書」に属するが、その中でも個性的な書風である。六朝楷書の代表的書蹟である「高貞碑」に似た鋭さを持ちながら、どこか柔らかさを持ち合わせており、純朴ながらも品格を感じさせる逸品である。
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碑文と書風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:13 UTC 版)
碑文は隷書と楷書の中間のような独特の書体で、1行30字、全13行。碑額には本文と同じ書体で「晋故振威将軍建寧太守爨府君之墓」と記されている。 内容は被葬者・爨宝子については軽く触れるにとどめており、前述の通り没年の表記すら存在しない上、具体的な功績についても書かれていない。そのほとんどは形式的とも言ってよい讃美に終始しており、出自となった氏族の系譜や生前の功績が具体的に書かれるこの時代の墓碑銘・墓誌銘には珍しく、内容があるとは言えないものとなっている。これについては、宝子がほとんど功績を残さないままに夭折したためと思われる。 書風については極めて特殊である。隷書のような波磔(はたく、隷書独特の払い)や近似した書体が見られる一方、楷書のように正方形の辞界に収まる字形を取っており、隷書と楷書の中間のような書風となっている。隷書から楷書への過渡期の字形であるが、現在では当時石刻に用いるために使われていた装飾字体の一種として使用されたものと見られている。 異体字や俗字が極めて多く、緊密でありながら大胆、躍るかのような明快な雰囲気を持つその書風は、王羲之などが華麗な行書をものする一方で、辺境の雲南地方ではこのような独特のアレンジが行われていたということを示すものであり、当時の南朝書道界の多様性を表す貴重な書蹟である。
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碑文と書風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:06 UTC 版)
碑文は楷書に酷似した書体で1行24字、全18行。碑額には本文と同じ楷書調の書体で「呉故九眞太守谷府君之碑」と記されている。碑の状態は極めてよいが、拓本を見ると摩滅した文字がある時期から復活するなど後から覆刻した形跡があり、事実清代の道光11年(1831年)に県令が碑を改修したとの記録がある。このため、刻された当時の姿のままではないと考えられている。 内容は被葬者の谷朗の系譜を語った後、生前の業績を記し、最後に讃をつけるという典型的な墓碑銘・墓誌銘のスタイルをとる。 書風については、一見すると楷書に見えるが、現在では完全な楷書ではなく前代の隷書の影響が強くみられる書体とされ、その書体史上の解釈については諸説あって定説がない(後述)。また異体字の極めて多い碑でもある。
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碑文と書風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:15 UTC 版)
碑文は篆書で1行17字から24字、全10行である。碑額はなく、長方形の石にそのまま刻されている。表面が全体的に摩滅しているが、全文読むことが可能である。右上、元号の1文字目が欠けて「□初」になってしまっているが、残された部分や碑文の内容から「元初」であることが明らかである。 内容は建碑の事情を一通り語った後、最後に建碑に賛同した官吏の名前を列記して終わるという極めてシンプルなものである。 書体が隷書の時代であるにもかかわらず篆書なのは、天や神に祈り感謝する宗教的な感情を示すために、篆書の持つ権威性を求めたためと考えられる。 書風については篆書ではあるものの、本来篆書の特徴であるべき曲線部が極端に少なく、直線が非常に多いのが特徴である。また時折隷書に近い字や誤字と思えるような字も散見され、純粋な篆書とはいえないものとなっている。
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碑文と書風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 13:53 UTC 版)
碑文は楷書で1行22字、全28行である。峻厳な山道の途中にもかかわらず、極めてきれいな状態で残されている。 内容は石門洞の歴史、今回の改修工事に至る経緯、竣工後の道への讃辞と続き、最後に四字句の讃をもって終わる。 書風はいわゆる「六朝楷書」である。ただし険しい環境下で刻したためか、他の「方筆」を用いた角ばって緊密にしまった書風とは異なっており、やや「円筆」(角を丸める筆法)に近い書法をとり、横長で自由奔放、飄々とした印象を受けるものとなっている。北魏の書の多様性を知るよい史料である。
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