碑文が語る歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 09:19 UTC 版)
「アメリカン・アンカレッジ記念碑」の記事における「碑文が語る歴史」の解説
記念碑に添えられた説明書きには以下のような内容(大意)が書かれている。嘉永6年6月3日(西暦1853年7月8日)マシュー・ペリー提督率いる4隻の黒船が浦賀に来航したが、その目的は、日本近海の海難米国船員の保護、補給(燃料・食糧)のための港の確保、通商のための開港であった。マシュー・ペリーは江戸湾を測量した結果、金沢(小柴)沖に旗艦サスケハナ号他4隻の艦隊を停泊させることとし、自ら、この海域を「アメリカン・アンカレッジ」と名付けた。マシュー・ペリーがここを停泊地に選んだのは、座礁を避けるために水深が深く、少しでも江戸に近い場所で幕府と交渉できるようにしたいと考えたからである。嘉永7年1月16日(西暦1854年2月13日)にマシュー・ペリー率いる艦隊が再び江戸に現れた際も、この「アメリカン・アンカレッジ」に停泊した。この時の来航で、「日米和親条約(神奈川条約)」が締結調印されている。また、安政5年6月19日(西暦1858年7月29日)に、初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリス(T・ハリス)と、下田奉行の井上清直・目付の岩瀬忠震が「日米修好通商条約」を締結したのも、この場所である。
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