碑文の内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 01:37 UTC 版)
首里城は琉球王国の創始者が神の眼を以て首都と定めた場所であり安易に遷都すべきではない。琉球王国は国頭府、中頭府、島尻府の三府全体で一体をなす龍のようなものであり、運河を掘ると龍脈が分断され、龍の勢いが削がれてしまう。
※この「碑文の内容」の解説は、「三府龍脈碑」の解説の一部です。
「碑文の内容」を含む「三府龍脈碑」の記事については、「三府龍脈碑」の概要を参照ください。
碑文の内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 22:10 UTC 版)
「ロゼッタ・ストーン」の記事における「碑文の内容」の解説
ヘレニズム期のエジプト・プトレマイオス王朝のプトレマイオス5世エピファネス施政下の紀元前196年に開かれたメンフィスの宗教会議の布告を書き写したものである。同一の内容が、エジプト語は神聖文字(ヒエログリフ)と民衆文字(デモティック)、ギリシア語はギリシア文字で刻まれている。ギリシャ語部分は次のように書き出されている。«Βασιλεύοντος τοῦ νέου καὶ παραλαβόντος τὴν βασιλείαν παρὰ τοῦ πατρός...» (新しい王は、王の父から王位を継承した...) その内容は、プトレマイオス5世を称え、プトレマイオス5世などに対する皇帝礼拝の実施方法を記したものである。 「 父の王位を継いだ若き者、王の中で最も傑出したる者、エジプトの守護者、神々にどこまでも忠実に仕え、敵に対し常に勝利を収め、王国全土に文明をもたらした……不死なる統治者、プタハ(エジプトの創造神)に愛されたる者であるプトレマイオスは、その治世第9年にあたりこの勅令を発布した……祭司長、占い師、神殿の侍者、王の扇持ち、神殿の書記、各地の聖所で奉仕する神官は、プタハに愛されたる不滅の王プトレマイオスの即位を祝うため王国全土から招集された。……神なる両親から生まれ、自身も神である者、エジプト全土の聖所とそれに仕える者たちに対して寛大で、自ら歳入の一部を彼らの給与や食料に充て、神殿の繁栄に努める者、プトレマイオス。彼は治世中、すべての者が富み栄えるために民の税を軽くした。国家に対して債務を負っていた数他の者たちを、それから解放した。投獄されていた者、裁判を待っている者たちに恩赦を与えた。エジプトへの侵入を企てる者たちを撃退するために軍馬、歩兵隊、海軍を備え、国家安全のために膨大な経費や穀物を費やした…… 」 なお、同様の内容の碑文がダマンフールから発見されているため、ロゼッタ・ストーンから一部欠落した部分をほぼ補うことが可能である。
※この「碑文の内容」の解説は、「ロゼッタ・ストーン」の解説の一部です。
「碑文の内容」を含む「ロゼッタ・ストーン」の記事については、「ロゼッタ・ストーン」の概要を参照ください。
碑文の内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 07:59 UTC 版)
北関大捷碑には、朝鮮の義勇兵がいかに勇敢に戦ったかが刻まれているが、記載されている戦闘が実際に存在したかどうかについては定かではない。石碑が建てられたのは戦闘があったとされる1592年から100年以上後の1709年であるため、石碑の内容の信憑性は不明である。戦闘当時の双方の記録に、碑文内容に該当する戦闘は記録されていない。 万暦の頃に、倭の酋長、秀吉が強大な軍勢を信じて、明を犯すようとしたが、我が国がその侵攻のための道を貸さないと怒り、遂には我が国に入寇し、都(現ソウル)にまで至った。宣祖(朝鮮王)は西に移動し、全ての村々が敵に蹂躪された。賊(日本)は京畿道(ソウル北部)を陥れ、荒々しい敵将2人(小西行長と加藤清正)は軍を二分して、行長は朝廷の後を追って西へ、清正は主に北方侵攻を担った。 我々は臨溟(現在の北朝鮮金策市臨溟里)に軍を分け、敵を待っていたが、賊(日本)は戦勝に慣れて備えをおろそかにしていた。我が軍が立ち上がって一斉に突撃すると賊(日本)は敗走した。それを追って敵将五人を殺し、無数な敵を斬り、馬と武器を捕獲した。これにより、これまで逃げ隠れていた将兵が加わり、七千人に達した。賊(日本)は吉州城に立て籠もったが、道に伏兵を置き、敵が出てくるやこれを打ち破った。城津(現在の金策市)の賊(日本)が臨溟に攻めてきたので、草むら山間に伏兵を設け、帰るのを待って双方から挟撃し、大いに破り、数百人を斬った。 南方より盗(日本)が我が国にやって来て、大邦(明)を撃とうとし、わが国は災いを受けた。高く高い北方が野蛮人(日本)の巣窟となり、愚かな民は抵抗することなく従った。だが、血を塗った口で我々を飲み込み、毒を吐く醜い賊(日本)に、義兵たちは勇ましかった。彼ら(義兵)は利益に捕らわれず義を重んじた。彼ら(義兵)が戈と弓を気にすることなく叛徒を殲滅すると、あの賊(日本)が我らに襲い掛る事はもうなかった。義兵が鼓を打つと、山は崩れ、海が沸くようで、我が軍の輝く攻撃に、醜い野蛮人(日本)は、驚きながら崩壊した。賊に神の罰を与える事を、義兵が底から手伝ったのは、私的じゃない忠誠のためであり、そのお蔭で北国(咸鏡道)は平定され、我々は再び蚕を飼い、農地を耕せるようになった。王様は「どれが汝の功績より優れているだろうか」と仰いながら、官職を賜り、功績を讃えた。臨溟の崖に石がそそり立っているが、これに功績を刻み、永遠に顕彰する。
※この「碑文の内容」の解説は、「北関大捷碑」の解説の一部です。
「碑文の内容」を含む「北関大捷碑」の記事については、「北関大捷碑」の概要を参照ください。
- 碑文の内容のページへのリンク