三府龍脈碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/14 20:13 UTC 版)

三府龍脈碑(さんぷりゅうみゃくひ、三府竜脉碑)は、1750年(乾隆15年)、琉球王国の宰相蔡温によって名護(後の沖縄県名護市)に建てられた石碑である。石碑の形状が、地元で屋敷の正門と母屋との間に建てられる魔除けの塀「ヒンプン(屏風)」に似ていることから「ヒンプンシー(屏風石)」とも呼ばれる[1]。碑文は表面に漢文、裏面に和文で書かれている。1991年(平成3年)1月16日に沖縄県の有形文化財(歴史資料)に指定された。
建立の経緯
1750年頃の琉球王国は首里(中頭、島尻)と名護(国頭)との間に軋轢があり、首都を首里城から名護へ移すことと、名護湾から羽地内海へ抜ける運河を建設することについて議論があった。これに対して当時の宰相蔡温が自らの考えを風水思想に基づく文言にまとめ、石碑にして示すことで論争の封じ込めを計ったものと考えられている[2][3]。
1749年(乾隆14年)3月21日に蔡温が言上し、同年夏に撰文し、翌1750年(乾隆15年)夏に碑が建立された。このため和文の年号は言上した乾隆14年となっている。創建当時は現在位置より数十メートル離れた場所にあったとされる[2]。
碑文の内容
首里城は琉球王国の創始者が神の眼を以て首都と定めた場所であり安易に遷都すべきではない。琉球王国は国頭府、中頭府、島尻府の三府全体で一体をなす龍のようなものであり、運河を掘ると龍脈が分断され、龍の勢いが削がれてしまう[2]。
全文は以下の通り。
竊惟天分星宿,地列山川,而天地相孚之美,誠莫切焉。故在地成形者,峙而為山岡壟阜,散而為平原郊濕,皆莫非二氣之凝布矣。是以察岡壟之所來,則知平原之発跡,所謂萬山一貫。是也吾國三府四十一縣,岡壟平原分合向背,成乎虎伏龍蟠之勢,得乎同幹異枝之宜。而龍脈綿綿大顕,天然之姿。是誠萬世洪福之國也。前古天孫氏首出闢國,始建玉城於首里府。是由神眼之所相,豈係常人之臆度。奈至後世,妄懐愚見,或有言曰,首里嶇岨,不若名護平坦之為愈。或有言曰,屋部港自西橫東,古我知港自東橫西,而其間唯有一丘為隔矣。國頭、羽地及大宜味三縣,船隻遠經郡、伊二島,屢為海風所阻。何不劈開是丘,而與船隻往還之便也雲爾。鳴呼。王城及是丘,悉皆微茫龍脈之所累。豈可妄移王城於他方乎。豈可妄劈是丘而作水路乎。今帰仁、本部二縣,唯頼是丘一脈而為。三府一體,三府亦頼是丘一脈,而保球陽雄勢。若劈是丘而作水路,則二縣龍脈不唯不相屬,球陽卻失大體雄勢也必矣。方今君王生質天縱,徳學日新,思之,深慮之,切特命(臣)溫以鐫斯文於碑石,永俾後人,知龍脈之係乎邦家,景連而有萬山,一貫之理矣。 時大清乾隆十四年己巳孟夏穀旦,法司正卿兼任國師(臣)蔡溫謹撰 — 蔡溫、三府龍脈碑記
その後
石碑は重要物として扱われ、1847年、フランスの軍艦が琉球王国を脅かした際には名護番所の役人が盗難を恐れて碑を地下に埋め保護した[4]。
1945年(昭和20年)の沖縄戦で所在不明となり、後に幸地川の河床から破片の一部が発見された[5]。この破片は名護博物館に保管されている。名護の玄関口を守護し歴史的にも貴重な石碑を復元しようという声があがり、1952年6月に当時の名護町町長比嘉宇太郎が復元を検討したものの財政難などのために断念している[6]。
1958年11月に名護町史蹟名勝天然記念物調査保存委員会が発足して復元事業が始められ、1962年に新しい石碑が完成した。石碑の再現にあたって歴史学者東恩納寛惇が保管していた拓本が用いられている[7]。復元された石碑はひんぷんガジュマルの樹下に設置された。
脚注
- ^ 『三府龍脉碑の復元を記念して』 pp.8-19
- ^ a b c 『名護碑文記 増補版』
- ^ 『三府龍脉碑の復元を記念して』 pp.7-8
- ^ 『名護六百年史』 p.45
- ^ 名護市教育委員会社会教育課編・発行 『名護市の文化財・第四集』 p.62、1997年
- ^ 『三府龍脉碑の復元を記念して』 pp.5-7
- ^ 『三府龍脉碑の復元を記念して』 pp.22-23
参考文献
- 名護碑文記編集委員会編 『名護碑文記 増補版』 pp.40-46、名護市教育委員会、2001年
- 比嘉宇太郎編 『三府龍脉碑の復元を記念して』 名護町役所、1962年
- 比嘉宇太郎 『名護六百年史』 沖縄あき書房、1985年
関連項目
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