小西行長と加藤清正とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 小西行長と加藤清正の意味・解説 

小西行長と加藤清正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)

文禄・慶長の役」の記事における「小西行長と加藤清正」の解説

加藤清正二番隊は、慶州城を占領した後、平戸出身漂着民の徳五郎と言う者に出会ったので、彼を嚮導者として進撃早め4月21日永川占領し新寧、比安へと進んだこのまま東路を進むならば竹嶺を目指すわけであるが、龍宮河、豊津と来た後は龍宮県には進まずに、聞慶進み小西行長消息聞く忠州城に向かったというので、急ぎ嶺を越えて後を追った清正到着合流忠州の戦いの前であったという異説もあるが、4月29日朝に忠州到着したとき、一番隊はまだ弾琴台で首実検行っていて、1日後れを取ったことを清正は大変残念がった。忠州城で一番隊二番隊合流したので、軍議持たれた。 軍議内容には異説多く古典には登場人物日付辻褄合わない点が散見されるが、小西行長率い一番隊孤軍直入したことに対して諸隊はもともと快く思っておらず、不満があった。 『征韓偉略』の記述はかなり誇張されていると思われるが、その内容では、漢城府への進撃路を割り当てる際に、加藤清正は、まず行長出自からかい武功を誇る行長に対して密かに出発して単独で功を成したが、その成功宗氏地理通じていたからで、自分の力ではなかったと喧嘩を売る。さらに、太閤清正行長隔日先鋒務めるように命令された のだから、今日より隔日先鋒替えて優劣をはっきりさせよう挑戦するのであるが、行長拒否すると、軍令無視であり私利私欲商人根性だと侮蔑行長激怒して刀を手にしたので、鍋島直茂止められる。そこで松浦隆信が、両将が先鋒命じられたに協力して敵に臨まずにお互いで相争って敵に利するようでは万死に値すると諭されて、両人反省して結局は進路分かつことになる。南大門目指す百里行程と、東大門目指す百余里の行程があったが、河口近く漢江を渡らねばならない直線距離が短い前者加藤清正選び道程長い渡河苦労小さ後者小西行長が進むことになった。 「行長清正確執」を参照

※この「小西行長と加藤清正」の解説は、「文禄・慶長の役」の解説の一部です。
「小西行長と加藤清正」を含む「文禄・慶長の役」の記事については、「文禄・慶長の役」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「小西行長と加藤清正」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「小西行長と加藤清正」の関連用語

小西行長と加藤清正のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



小西行長と加藤清正のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの文禄・慶長の役 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS