デモティックとは? わかりやすく解説

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デモティック


デモティック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/11 13:49 UTC 版)

デモティック
ロゼッタ・ストーンに刻まれたデモティック
類型: 表語文字 (一部の文字はアブジャドの性格を持つ)
言語: エジプト語
時期: 紀元前650年頃-紀元後5世紀
親の文字体系:
子の文字体系: コプト文字
メロエ文字
Unicode範囲: 割り当てなし
ISO 15924 コード: Egyd
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デモティック (Demotic) または民衆文字(みんしゅうもじ)は、古代エジプトエジプト語を表記するのに使われた3種類の文字のうちの1つである。

歴史

古代エジプトでは石に刻むためのヒエログリフ(聖刻文字)と筆記用のヒエラティック(神官文字)の両方が並んで発達し、後にヒエラティックを崩した簡略文字であるデモティックが作られたと考えられる。ただし、デモティック書体で木や石に刻んだものも多く残っている。

デモティックは古くは紀元前660年に使われているのが見つかっており、紀元前600年には古代エジプトでは標準的な書体となったと見られている。4世紀にはエジプトでもギリシア文字を基にしたコプト文字が使われており、デモティックはそれ以後使われなくなった。

後年に見つかっているデモティックの最後の使用例は、紀元452年フィラエ神殿の壁に刻まれたものである。

前期デモティック (Early Demotic)

初期デモティック(ドイツ語ではFrühdemotisch)は、第25王朝後期の下エジプトで発展し、特にサッカラのセラペウムから出土した石碑に見られる。初期デモティックのテキストは、ほとんどが第26王朝とその後のアケメネス朝属州(第27王朝)の時代に書かれているため、一般に紀元前650年から紀元前400年の間に作られたと考えられている。プサムテク1世によるエジプト再統一後、上エジプトではデモティックがヒエラティックの後継として、特にイアフメス2世の時代には公式の行政・法律文書に使用された。この時期、デモティックは行政文書、法律文書、商業文書にのみ使用され、ヒエログリフやヒエラティックは宗教文書や文学にのみ使用された。

中期デモティック (Middle (Ptolemaic) Demotic)

中期デモティック(紀元前400年頃〜30年頃)は、プトレマイオス朝で使われていた文字である。紀元前4世紀以降、文学や宗教のテキストに使用されるようになり、デモティックの地位が高まった。紀元前3世紀末には、行政言語であるコイネーの重要性が高まり、デモティックの契約書は、当局に登録されたことをギリシャ語で記さない限り、その法的効力をほとんど失った。

後期デモティック (Late (Roman) Demotic)

ローマ帝国のエジプト支配が始まって以来、デモティックは次第に公的な場では使われなくなった。後期デモティック(紀元前30年頃〜紀元452年、特に紀元1〜2世紀)には多くの文学的テキストが書かれていたが、2世紀末に急速に減少した。ラテン語が帝国西部の言語を駆逐したのとは対照的に、ギリシャ語がデモティックに置き換わることはなかった[1]。その後、デモティックはごく一部のオストラコン、ギリシャ語テキスト、ミイラのラベル、落書きなどに使われただけであった。後年に見つかっているデモティックの最後の使用例は、紀元452年フィラエ神殿の壁に刻まれた落書きで、452年12月12日の日付がつけられている。本文は「ペトシリスの息子ペティセ」とだけ書かれており、ペティセが誰であったかは不明である[2]

単字と翻字

ヒエログリフの前身である文字体系と同様に、デモティックも単字、つまり「アルファベット」の文字セットを持ち、個々の音素を表現することができた。単字はデモティックの中でも頻繁に使用され、文章中の全文字のうち3分の1から2分の1を占めており、特に多くの外来語は単字で書かれている[3]。後期(ローマ時代)のテキストでは、単字はより頻繁に使われている[4]

次の表は、単字、翻字、元となったヒエログリフ、そこから派生したコプト文字、および使用上の注意点を示した一覧である[3][4][5]

翻字 デモティック ヒエログリフ[5] コプト文字 備考
語頭では使用されない。
ı͗ or or
通常、横長の文字の上に置くときに使う。
y
or
or
or
or
or
or
or
or
or
or
or
通常、横長の文字の上に置くときに使う。
or or
or
or
or or
or

デモティック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 22:10 UTC 版)

「ロゼッタ・ストーン」記事における「デモティック」の解説

スウェーデン外交官であり学者でもあったヨハン・ダヴィド・オーケルブラド取り組んでいたのは、ロゼッタ・ストーン発見当時はほとんど知られておらず、やっといくつかの資料エジプト発見されはじめていた後にデモティックとして知られる文字である。オーケルブラドはそれを「筆写体のコプト語」と呼んでいた。後世コプト語文字とはそれほど類似点持っていなかったが、オーケルブラドはデモティックがコプト語形式 (form) をとどめていると確信していたし、実際にコプト人古代エジプト人の直系の子孫である。オーケルブラドとこの仕事について議論交わしてきたフランス東洋学者シルヴェストル・ド・サシ1801年内務大臣ジャン=アントワーヌ・シャプタル(フランス語版)からロゼッタ・ストーン初期石版画1つを受けとり、その中央の言葉自分たちが取り組んでいるのと同じ文字書かれていることに気づいた。ド・サシもオーケルブラドも中央の文章焦点をあてて解読取りかかる同時に、この文字アルファベット式の記号であるという仮説立てていた。2人はまずギリシャ語比較することで、この未知文章のなかでギリシア人の名前があるはずの位置特定しよう試みた1802年、ド・サシは5つの名前を探り当てることに成功したとシャプタルに報告している。すなわち、「アレクサンドロス」、「アレキサンドリア」、「プトレマイオス」、「アルシノエ」、プトレマイオス5世異名「エピファネス」である。一方オーケルブラドも、デモティックの文章のなかのギリシア人の名前から29個の字母特定した発表した(そしてそれは半分以上正確なのだった)[D]。しかしデモティックの文章にはまだ識別されていない字があり、今では周知のことだが、そこに含まれる表音文字以外の表意文字その他の記号2人突き止めることはできなかった。

※この「デモティック」の解説は、「ロゼッタ・ストーン」の解説の一部です。
「デモティック」を含む「ロゼッタ・ストーン」の記事については、「ロゼッタ・ストーン」の概要を参照ください。

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