ヒエログリフ、ヒエラティック、デモティック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 14:54 UTC 版)
「古代エジプト文学」の記事における「ヒエログリフ、ヒエラティック、デモティック」の解説
詳細は「エジプト文字」を参照 紀元前4千年紀後半のエジプト初期王朝時代までには、ヒエログリフ(聖刻文字)とその筆記体であるヒエラティック(神官文字)は充分に確立された文字体系となっていた。エジプトのヒエログリフは自然物の小さな芸術的絵であった。例えば、閂(英語版)を表すヒエログリフはseと発音され、sの音を作り出した。このヒエログリフが他の1つまたは複数のヒエログリフと結合されると、音の組み合わせが作り出され、悲しみ・幸福・美・悪といった抽象的な概念を表すことができた。紀元前3100年頃の先王朝時代のエジプト末期のものとされるナルメル石板(英語版)では、鯰と鑿のヒエログリフを組み合わせてナルメル王の名前を表している。 エジプト人たちはヒエログリフを「神の言葉」と呼び、その使用を葬礼文書(英語版)を通じての神や死者の霊との交信といった高貴な目的に限定していた。ヒエログリフの語それぞれが、特定の物体を表すと同時に、その物体の本質を体現しており、神により創られより大きなコスモスの一部となっているものと認識されていた。香を薫くといった聖職者による典礼の行為を通じ、神官は魂や神々に、神殿の表面を飾っているヒエログリフを読めるようにしていた。第12王朝に始まる葬礼文書においては、墓の主である故人の魂は来世での糧の源として葬礼文書のテクストに依存しており、あるヒエログリフを損ねたり、省略したりすることは良くも悪くも故人に何らかの影響を及ぼすのだとエジプト人たちは信じていた。毒蛇やその他の危険な動物のヒエログリフを切断することは、そのもたらしうる危険を取り除く。しかしながら、故人の名前のうちいかなる部分でも取り除くことは、故人の魂が葬礼文書を読む能力を奪い、魂を生気のない物質へと運命づけてしまうと考えられていた。 ヒエラティックは、ヒエログリフを単純化した草書体である。ヒエログリフ同様、ヒエラティックも神聖な宗教的テクストに用いられた。ヒエラティックは、古代エジプト語がヒエログリフを用いて表現されるようになってから数百年後のエジプト古王国時代の初期にはすでに用いられており、パピルス文書や手紙などに用いられていた。紀元前1千年紀までには、筆記体のヒエラティックは葬礼パピルス(英語版)や神殿の文書の大部分で用いられる書体となっていた。 ヒエログリフの筆記には極度の正確さと気配りが要求されたのに対し、草書体のヒエラティックは遥かに高速に書くことが出来たので書記官(英語版)による記録管理により適していたのである。医学、数学、教育案内といった、王家用でなく、記念碑的でなく、それほど公式的でない用途向けの速記法として主に利用された。ヒエラティックは2つの異なった書体で書くことができた——1つは政府の記録や文学的手稿に用いられるよりカリグラフィ的な書体であり、もう1つは非公式な計算や手紙に用いられる書体である。 書記や神官がパピルスに文字を書くとき、ヒエログラフではひとつひとつの文字に時間がかかってしまうことから、文字の簡略化が進行してヒエラティックが生まれたと推定されるが、やがて互いの書体を比較したり、次世代の書記・神官に学ばせたりしながら、ある程度共通した文字のくずし方が共有されたものとみなされる。当初ヒエラティックの書体はヒエログリフに近いかたちを保っていたが、しだいに簡略化が進展し、エジプト中王国の時代にあっては原形をとどめるものは少なくなっている。このように、ヒエラティックの書体は長い年月のなかで時とともに変化したため、文献資料の年代決定に重要な役割を果たしている。 紀元前1千年紀の中葉までには、ヒエログリフとヒエラティックが依然として王家、記念碑、宗教、葬礼などの筆記に用いられる一方で、ヒエラティックよりもさらに草書的な新しい書体が日常的な非公式の書き物に用いられるようになった——デモティック(民衆文字)である。デモティックは、下エジプトにおいて紀元前7世紀以降に成立したものともみられており、いくつかのヒエログリフがひとまりまりになった内容を、ごくわずかな画数で表現したものである。 デモティックは、それまでのヒエラティックに代わり日常的な書類や、いわゆる文学作品をパピルスに記す際に用いられた。デモティックの登場により、ヒエラティックは宗教文書をパピルスやミイラの包帯に記すなど限定的に使用され続けることとなった。また、ヒエラティックとは異なり、デモクラティックはステラ(石碑)など恒久的にのこって長く後世に伝えることが期待された媒体にも使用された。ロゼッタ・ストーンにも、ヒエログリフおよびギリシャ文字とともにデモクラティックが刻されている。 古代エジプト人によって採用された最後の書体はコプト文字で、これはギリシア文字の改訂版であった。キリスト教がローマ帝国全体の国教となった紀元4世紀にはコプト文字が標準となった。ヒエログリフは異教の伝統の偶像崇拝的な図像であり、聖書正典の筆記には不適切なものであるとして放棄された。
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