紀元前7世紀
紀元前7世紀
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「新アッシリア帝国の軍事史」の記事における「紀元前7世紀」の解説
紀元前694年 センナケリブがエラムを攻撃する。エラムは、アッシリア軍のいなくなったバビロンを攻撃した 紀元前693年 ディヤーラー川の戦い。アッシリア軍はエラムを強襲したが、バビロニア反乱の知らせを受け、やむなく撤退する 紀元前692年 ハルルの戦い。エラム人、バビロニア人、カルデア人、アラムとザクロスの諸部族の連合軍が、アッシリア軍を撃退する 紀元前691年 大損害の上に、センナケリブがエラムに勝利する。その上で、バビロンの反乱も鎮圧した 紀元前681年 センナケリブが2人の息子に殺される。別の子エサルハドンが争いを制してアッシリア王になる 紀元前679年 エサルハドンの軍が、キンメリアとスキタイの連合軍を破る 紀元前679年 エサルハドンの部隊がArzaniの街を占領し、エジプト国境に達する 紀元前676年 増大するイランの国力に対抗するため、エサルハドンが攻撃を開始する 紀元前675年 エジプトに攻撃するが、撃退される 紀元前671年 アッシリア軍による再度のエジプト攻撃が成功する 紀元前669年 メンフィスがアッシリア軍の略奪を受ける 紀元前668年 アッシュルバニパルがエサルハドンの跡を継ぐ。アッシリア王としてメソポタミア以外の地域において国境を広げるのは、彼が最後となる 紀元前665年 メディアに対する、10年に及ぶ遠征が始まる 紀元前665年 エラムがバビロンを攻撃するが、失敗に終わる 紀元前665年 エラムがバビロンを攻撃する。エジプトも同時にアッシリアに対して攻撃を開始する。アッシュルバニパルが編成した大軍により、エラムの攻撃は撃退される 紀元前663年 アッシュルバニパルがエジプトのメンフィスの包囲を解き、南のテーベを破壊する 時期不詳(あるいは紀元前655年か) アッシュルバニパルがエラム軍を、ウライ川の向こう、スーサの平原まで追いやる 紀元前653年 メディアの侵入が、スキタイの攻撃により止まる 紀元前652年 アッシュルバニパルの兄、シャマシュ・シュム・ウキンが治めるバビロンが反乱する 紀元前651年 アッシュルバニパルがエジプトを諦め、エラムによる攻撃への対応に集中する。この頃から、アッシリア軍に疲弊の兆候が現れ始める 紀元前648年 バビロン陥落。バビロンは完全に破壊され、シャマシュ・シュム・ウキンは死亡 紀元前647年 スーサの戦い。アッシュルバニパルによりスーサが完全に破壊される 紀元前639年 アッシュルバニパルが、エラムの地を荒廃させる。エラム王朝はその後、復興することはなかった アッシリアの滅亡 紀元前635年 紀元前651年以降、野放しだったエジプトがアシュドドを襲う 紀元前631年 アッシュルバニパルが死ぬ。以後、アッシリアの衰退が加速する 紀元前622年 ユーフラテス川の西側へアッシリアの遠征が行われた可能性があるが、アッシリアにおける記録の欠落は、アッシリアの敗北を示すのかもしれない 紀元前616年 紀元前626年にバビロン王となったナボポラッサルが、アッシリア軍をバビロニア地方から追い払う 紀元前615年 メディアがアッシリアに侵入。アラプハを占領する 紀元前614年 アッシリアの最初の首都だったアッシュルが、キュアクサレス率いるメディア軍によって略奪される 紀元前612年 ニネヴェの戦い。メディアとバビロニアの連合軍によって3か月包囲された後、ニネヴェが陥落、破壊される 紀元前609年 メギドの戦い。エジプトがアッシリアの救援を試みたが、失敗に終わる 紀元前609年 ハッラーンの陥落。新たにアッシリアの首都と定められていたハッラーンが、メディアとバビロニア軍の進撃により破壊される 紀元前608年 最後のアッシリア王、アッシュル・ウバリト2世の消息が絶たれ、ここに新アッシリア帝国は完全に消えた
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