ヘロドトス【Hērodotos】
ヘロドトス
ヘロドトス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/03 07:52 UTC 版)
ヘロドトス(ヘーロドトス、古希: Ἡρόδοτος, Hēródotos、羅:Herodotus、紀元前484年頃 - 紀元前425年頃)は、古代ギリシアの歴史家である。歴史という概念の成立過程に大きな影響を残していることから、歴史学および史学史において非常に重要な人物の1人とされ、しばしば西洋に於て「歴史の父」とも呼ばれる。
注釈
- ^ ハリカルナッソスはイオニアに属する都市ではないが、ヘロドトスはしばしばイオニア人であると見られがちである。実際ヘロドトスの思考や知的背景がイオニアに多くを負っているのは間違いないにもかかわらず、彼の姿勢は極めて親アテナイ的であり、イオニアに対する非難を躊躇していない。『歴史』の叙述におけるヘロドトスのイオニア人に対する態度はある種侮蔑的であり、「イオニア人という名前は偉大な名声を持つ名前ではない」とも書いている。J.B.ベリーは「かれがイオニア作家として叙述したといわれたならば、かれは大いに憤慨したであろう。かれは、イオニアとイオニア的な関心から離れようと非常に苦心した。」と述べる[7]。
- ^ ヘロドトスが伝えるアラビア人の話によれば、ライオンの雌は一生の間に一頭の子供しか生まない。それはライオンの赤子は胎内で動き始めるようになると母の子宮を爪でかきむしるからで、出産が近づく頃には子宮で無事な部分は全く残らず、出産とともに子宮も体外に排出されるためだという[48]。
- ^ ヘロドトスはクセルクセスの率いた軍隊の総勢が「百七十万人以上であることは確かである」としている[59]。
- ^ 聴衆の存在を前提に、様々な挿話によってその関心を惹きつけるホメロス以来の伝統的な事物の語りの伝統。
出典
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- ^ a b c d e 桜井 2006, p. 12
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- ^ a b c d e ベリー 1966, p. 38
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- ^ a b c d e 松平 解説, p. 372
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- ^ 松平 解説, p. 374
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- ^ a b c 桜井 2006, p. 20
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- ^ a b ベリー 1966, p. 40
- ^ 大戸 2012, p. 61
- ^ 『歴史』巻2 §122-123
- ^ a b c ベリー 1966, pp. 45-51
- ^ 『歴史』巻7 §129
- ^ 大戸 2012, pp. 74-77
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- ^ 大戸 2012, pp. 58-59
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- ^ 大戸 2012, p. 72
- ^ 『歴史』, 巻3§108
- ^ a b c 桜井 2006, p. 42
- ^ 桜井 2006, p. 109
- ^ 『歴史』(トゥキュディデス), 巻1§20-23
- ^ a b c 桜井 2006, pp. 28-31
- ^ 藤縄訳注, pp. 22-24
- ^ 大戸 2012, p. 94
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- ^ 大戸 2012, p. 98
- ^ a b 桜井 2006, p. 43
- ^ 大戸 2012, p. 73
- ^ 『歴史』, 巻7§60
- ^ ベリー 1966, p. 69
- ^ 桜井 2006, p. 45
- ^ a b c 桜井 2006, p. 50
- ^ 桜井 2006, p. 51
- ^ 大戸 2012, p. 86
- ^ 大戸 2012, pp. 86-87
- 1 ヘロドトスとは
- 2 ヘロドトスの概要
- 3 評価
- 4 脚注
- 5 関連項目
ヘロドトス (紀元前5世紀)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 02:40 UTC 版)
「初期の世界地図」の記事における「ヘロドトス (紀元前5世紀)」の解説
ギリシアの歴史家ヘロドトス(紀元前485年頃-前420年頃)の時代になると、空想を入れる習慣が少なくなった。一番の特徴は、世界を取り囲む円海であるオーケアノスの存在を否定したことである。ヘロドトスはエジプト、ペルシア、スキタイなどを訪れており、カスピ海が内海であることなどが正確に書かれている。一方でヨーロッパに関しては、イステル川(ドナウ川)の流れですら不正確である。
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ヘロドトス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 15:06 UTC 版)
ギリシア人の歴史家ヘロドトスはクフを寧ろ異端者、残酷な独裁者として描写する。彼の文学作品歴史の巻2、124-126に、彼は次のように書いている。 「エジプトではランプシニトス王の時代までは、申し分のない政治が行われ、エジプトの国は大いに栄えたが、彼の後にエジプト王となったケオプスは、国民を世にも悲惨な状態に陥れた、と祭司たちは語っていた。この王は先ずすべての神殿を閉鎖し、国民が生贄を捧げることを禁じ、つづいてはエジプト全国民を強制的に自分のために働かさせたという。アラビアの山中にある石切場から石をナイルまで運搬する役を負わされた者もあれば、船で河を越え対岸に運ばれた石を受け取り、いわゆるリビア山脈まで曳いていく仕事を命ぜられた者たちもあった。常に十万人もの人間が、三カ月交代で労役に服したのである。石材を曳くための道路を建設するのに、国民の苦役は実に十年にわたって続いたという。この道路というのが、全長二十五スタディオン、幅十オルギュイア、高さはその最も高い地点で八オルギュイアあり、さまざまの動物の模様を掘り込んだ磨いた石で構築したもので、私の思うには、これはピラミッドにもあまり劣らぬ大変な仕事であったに相違ない。なお右の十年間には道路のほかに、ピラミッドの立つ丘の中腹をえぐって地下室も造られた。これは王が自分の葬室として造らせたもので、ナイルから掘割を通して水をひき、さながら島のように孤立させてある。 さてこのピラミッド建造に用いられた方法は階段式の構築法で、この階段(アナパトモス)のことを、クロッサイ(「胸壁」)という人もあり、またボーミデス(「祭壇の階段」)の名で呼ぶ人もある。はじめにこのような「階段」を作ってから、寸の短い材木で作った起重装置で残りの石を揚げるのであるが、まず地上から階段の第一段に揚げる。石がここに揚ってくると、第一段に備えつけてある別の起重機に積んで二段目に引き上げられる。階段の段の数だけ起重機が備えてあったと考えられるからであるが、あるいはしかし、起重機は移動し易いものが一基しかないのを、石をおろしては順々に上の段へ移していったのかもしれない。両様の方法が伝えられているので、われわれも伝承に従って二つながら記しておこうと思うのである。さて最初にピラミッドの最後部が仕上げられ、つづいてそれに接続する部分という風にして、最下段の地面に接する部分が最後に完成されたのである。ピラミッドにはエジプト文字で、労務者に大根、玉葱、ニンニクを支給するために消費した金額が記録してある。私は通訳がその文字を読んで聞かせてくれたことをよく記憶しているが、その金額は銀千六百タラントンにものぼっていた。もし記録のとおりであったとすれば、工事用の鉄製品や、労務者たちの主食や衣類を賄うのに支出されたその他の費用は、一体どれほどの額に上ったものであろうか。右の建造物を建てるのに前述の時間を要したほか、石を切り出して運び、また地下の掘割を開墾するのにも、少なからぬ時間を費したに相違ないと、私には思われるからである。 ケオプスの悪行は限りを知らず、果ては金に窮して己れの娘を娼家に出し、なにがしかの金子 - その額は祭司たちも言わなかった - の調達を命ずることまで敢えてしたという。娘は父に命ぜられた額の金を調達したが、娘は自分のためにも何か記念になるものを後世に残したいと考え、自分の許へ登楼してくる客の一人一人に自分のために工事用の石を一個ずつ寄進してくれと頼んだという。祭司たちの話では、大ピラミッドの前面にある三基のピラミッドの中央のものは、こうした石で造られたものであるという。このピラミッドの各辺の長さは一プレトロン半もある。」 カフラー王についての話も同じである。彼はクフの後継者として描かれ、同様に悪であり56年間統治したとする。歴史巻2, 127-128で彼は以下のように書いている。 「彼の死後はその弟ケフレンが王位を継いだという。この王も万事先王と同じ流儀を通した人物で... ケフレンの在位は五十六年に及んだという。エジプト人はこの百六年という年数を数えて、この期間エジプトの国民は言語に絶した苦難に沈み、神殿もこのような長期にわたって閉鎖され開かれなかったといっているのである。」 ヘロドトスはこの邪悪な王達の物語を歴史巻2-128で次のように締めくくっている。 「エジプト人は憎しみの念からこれらの王の名を口にしたがらない。ピラミッドを呼ぶのですら、ビリティスという当時そのあたりで家畜を飼っていた牧夫の名を附けて呼んでいるくらいである。」
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ヘロドトス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/09 14:30 UTC 版)
ヘロドトス(『歴史』2:54–57)は紀元前5世紀にエジプトのテバイの祭司から次のように聞いたとした。 「二人の巫女がフェニキア人によってテバイより浚われ、一人はリビアへ、もう一人はヘラスへと売られた。これらの女性がそれぞれの地で神託所を設立した人である」 これらの記述からわかることは、エジプトはギリシア人に対してだけではなくエジプト人たちにとっても、計り知れないほど古いが、全ての人類文化の泉であったということである。この神話の要素が伝えるのは、リビアのシワのオアシスとイピロスのドードーナにある神託所は共に古く、フェニキア文化においても同じように同様の伝承を持ち、また女予言者であるということである。ヘロドトスは「シビュラ」とは伝えず、「女性」と伝えている。ヘロドトスはドードーナでペレイアデス(英語版)(Peleiades, 鳩)と呼ばれた女予言者たちについてドードーナの巫女たちから聞いた話として以下のように記した。 二羽の黒鳩がエジプトのテバイから飛びたってその一羽はリビアへ、他は彼らのもとへたどり着き、そしてそれが一本の樫の木にとまって、人語をもってそこにゼウスの神託所を設けねばならぬと告げ、彼らはそれが自分達に対する神のお告げだと考え、それにしたがって彼らの神託所を設けたという。また、リビア人の所へ行った鳩は、リビア人にアンモンの神託所を作るように命じたということであって、これもゼウスのものである。以上がドドナの巫女の話であるが、その最年長者をプロメネイアと呼び、その次をティマレテといい、ニカドラというのが最年少者である。その神殿に関係しているほかのドドナ人も彼女等と同じことを語っていた。 — ヘロドトス『歴史』 この最も簡単な解釈としては、これはエジプトの神託所の伝承を確認するものである。鳩の要素は、神聖な女性への古代の名についての伝承的語源を説明するであるともされるが、ゼウスとの関係について見出すことはできず、巫女によって語られた物語を正当とするものである。彼女たちのペレイアデス (Peleiades) という名前につながるpel-という要素はペーレウス (Peleus) やペロプス (Pelops) のように「黒」や「泥(に汚れた)」という要素を源とするか?何故鳩は黒か?という疑問についてヘロドトスは下記のように追記している。 しかし、私としてはそれについて次のような見解を抱いている。もし真実フェニキア人がそれらの巫女を連れ出してその一人をリビアへ、他をギリシアへ売り飛ばしたものとすれば、私の考えとしては、以前は同じ国でありながらペラズギア (Pelasgia) と呼ばれ、今日ではギリシアと呼ばれている国でも、その婦人の売られた先はテスプロトイ人の所であって、その後、その行った先の地で、テバイ・ゼウスの宮にかしずいていた彼女が自然その廟を思い起こし、その地に奴隷でありながら、はえていた樫の木の下にゼウスの祠を建立したものと思う。その後に、ギリシア語を解するようになって神託を始めたのであって、彼女の姉妹が、自分をも売った同じフェニキア人のためにリビアで売られたと物語ったものであろう。 — ヘロドトス『歴史』 それらの婦人がドドナ人に鳩と呼ばれたのは、彼らが異邦人であって、彼らにはその言葉が鳥のさえずりのように思われたからであろう。そして、しばらくたって鳩が人語でしゃべったと称しているのは、その婦人が彼らに解されることを話すようになったからである。つまりどうして鳩が人語を話しうるのかと問わざるを得ないといったわけで、彼女が異国語を話していたかぎり、彼らには鳥のような声を出すと思われていたのである。また、黒鳩であったというのはその婦人がエジプト人であったことを意味している。 — ヘロドトス『歴史』 ドードーナの西海岸であるテスプロティアは海で暮らすフェニキア人にとって利用可能であったのかもしれないが、ヘロドトスの読者にとってはドードーナほど遠い島にまで侵入するとは予期されていなかった。
※この「ヘロドトス」の解説は、「ドードーナ」の解説の一部です。
「ヘロドトス」を含む「ドードーナ」の記事については、「ドードーナ」の概要を参照ください。
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