ヘロドトスの記録
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「 サウロマタイ人のかなたに(タナイス河を越えてから)第二の地域を占めて住むのはブディノイ人で、その国は全土にわたってあらゆる種類の森林におおわれている。ブディノイ人の国を越えて北へ進むと、7日の行程にわたって無人の地が続き、この無人の境の果てたところで向きをやや東に転ずると、テュッサゲタイ(英語版)という多数の人口を擁し、特異な性格を持つ民族が住んでいる。<ヘロドトス『歴史』巻4-21,22> 」 「 ブディノイ人は多数の人口を擁する大民族で、眼の色はあくまで青く赤毛である。この国にゲロノスという木造の町がある。街を囲む壁は各辺が30スタディオンあり、高くかつ全て木造で、また住民の家屋も聖域の建物も全て木造である。聖域というのはこの地にはギリシアの神々の聖域があるからで、木造の神像,祭壇,神殿を具えてギリシア風に設けられており、隔年にディオニュソスの祭を祝い、バッコス式の行事を行う。それはゲロノス人が元来ギリシア人であったからで、海岸の通商地を去ってブディノイ人の国に移住したのである。言語はスキュティア語とギリシア語を半々に用いている。しかし、ブディノイ人はゲロノス人と同一の言語を用いず、その生活様式も同じではない。なぜならブディノイ人は土着の遊牧民で、このあたりに住む民族の中でエゾ松の実を常食する唯一の民族であるが、ゲロノス人の方は耕作民で、穀物を常食とし、菜園も持つほどで、姿も肌の色も同じでないからである。ギリシア人はブディノイ人をもゲロノス人と呼ぶが、これは正しくない。ブディノイ人の住む地方は一面にあらゆる種類の樹木が鬱蒼と茂っている。その最も深い森林の中に巨大な湖があり、まわりには沼沢があり、蘆が生い茂っている。この湖水ではカワウソやビーバーや四角な顔をした別の獣が捕獲される。これらの皮は彼らの着用する皮の服の縁に縫い付けられ、また睾丸は子宮病の良薬として珍重される。<ヘロドトス『歴史』巻4-108,109> 」
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ヘロドトスの記録
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古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは『ヒストリアイ(歴史)』において次のように記している。 「 まず、カッリピダイというギリシア系スキタイが住んでおり、その向こうにはアリゾネスという民族が住む。アリゾネスの向こうには農耕スキタイが住み、その向こうにはネウロイが住むが、ネウロイ以北は我々の知る限りでは無人の境である。以上がボリュステネス河以西、ヒュパニス河畔に住む諸民族である。<ヘロドトス『歴史』巻4-17> 」 「 ネウロイはスキタイ風の慣習に従っているが、ダレイオスの遠征より一世代以前に、彼らは蛇の襲来に遭い、全国土から退散せねばならぬという羽目に陥った。この国に多数の蛇が発生したのみならず、さらに多数の蛇が北方の荒野から来襲したためで、遂には困窮の果てに故郷を捨て、ブディノイとともに住むこととなった。この民族はどうやら魔法を使う人種であるらしく、スキタイやスキュティア在住のギリシア人の言うところでは、ネウロイは1年に一度だけ数日にわたって狼に変身し、それからまた元の姿に戻るという。私はこのような話を聞いても信じないが、話し手は一向に頓着せず真実であることを誓いさえするのである。<ヘロドトス『歴史』巻4-105> 」 すなわちネウロイ人の国はおそらく前6世紀初頭と思われる時代に、のちにスキタイ諸民族やギリシャ人がネウロイ人から「蛇の襲来」というふうに聞きつけてきた災厄(戦争、ないし山火事や洪水などの天変地異、あるいは実際に害虫や害獣の異常繁殖?)に見舞われたため一度はるか東方のブディノイ人が住む地方まで集団疎開したことがあり、ヘロドトスの時代には彼らはすでにもとの国土(現在のベラルーシ北部からリトアニアあたりにかけて)に戻って住んでいるというのである。(ヘロドトスの時代にはネウロイ人の国とブディノイ人の国は隣接していない。)
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ヘロドトスの記録
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「メランクライノイ」の記事における「ヘロドトスの記録」の解説
古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは『ヒストリアイ(歴史)』において次のように記している。 「 王族スキタイの領土以北には、非スキタイ系であるメランクライナイ(黒衣族)が住んでいる。メンクライナイ以遠の地域は我々が知る限り沼沢のみで、人間が棲息していない。<ヘロドトス『歴史』巻4-20> 」 「 メンクライノイは全員黒い衣をまとっており、その名もこれに由来する。その風習はスキタイ式である。<ヘロドトス『歴史』巻4-107> 」
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ヘロドトスの記録
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ヘロドトスの『歴史』にはダオイと記されており、マルドイ,ドロピコイ,サガルティオイなどの諸族とともに、アケメネス朝のキュロス2世(在位:前550年 - 前529年)の召集でメディア王国から離反した。
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ヘロドトスの記録
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「 ボリュステネイタイ(オルビオポリタイ、農民スキタイ)の先には広漠たる無人の荒野が続いているが、この無人地帯を過ぎたところにアンドロパゴイ人が住んでいる。これは特異な民族で、スキタイ系では全くない。これより先はまさに無人の地で、我々の知る限りでは、もはやいかなる人間の種族も棲息していない。<ヘロドトス『歴史』巻4-18> 」 「 アンドロパゴイの風俗は世にも野蛮なもので、正義も守らなければ、なんの掟も持たない。遊牧民であり、服装はスキタイによく似たものを用い、独特の言語を持つ。周辺のタウロイ,アガテュルソイ,ネウロイ,メランクライノイ,ゲロノイ,ブディノイ,サウロマタイら諸族の中では唯一、人肉を食す。<ヘロドトス『歴史』巻4-106> 」
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ヘロドトスの記録
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アケメネス朝のキュロス2世(在位:紀元前550年 - 紀元前529年)はバビロン人を征服すると、今度はマッサゲタイ人をも配下に収めたくなった。当時マッサゲタイでは、夫に先立たれたトミュリスという名の女性が女王であった。キュロスは使者を通じ、自分の妻に迎えたいと称してこの女王に求婚した。しかしトミュリスは、キュロスが求めているのは自分ではなく、マッサゲタイの王位であることを見抜き、彼の来訪を拒絶した。キュロスは計略が成功しないのをみてとると、アラクセス河畔に兵を進め、公然とマッサゲタイ攻撃の準備をはじめた。軍隊の渡河のため、河上に船橋を組み、渡河用の船の上に櫓を築かせた。この作業を進めているキュロスのもとへ、トミュリスは使者を送って次のように伝えさせた。「どうしてもマッサゲタイと一戦を交えることをお望みならば、手間をかけて河に橋を渡すようなことは止め、我らが河岸から三日の行程で退いた後、河を渡って我が国に入られよ。もしくは我らを貴国内に迎え撃つことをお望みならば、そなたの方も我らと同じようにされたい。」これを聞いたキュロスはペルシア軍の主だった者に召集を命じ、集まった一同に事の次第を告げ、二つのうちいずれかの道をとるべきかを協議した。そして一同の意見は、トミュリスとその軍を自国に迎え撃つべしという説に一致した。しかし、元リュディア王のクロイソスだけがこの説を非難し、これと反対の意見を述べてこういった。「まず、我が陣地に肉のほか生酒も壺にたっぷりと入れ、その他あらゆる料理をそろえておきます。そうしておいて我が軍の最も劣弱な部隊だけを残し、他の者は河の縁まで退きます。もし、私の考えに誤りなくば、敵はこの沢山の御馳走を目にして必ずそこへやってきます。それからあとは我が軍が大いに手柄を表すばかりとなりましょう。」このようにして二つの意見が対立したが、キュロスは最初の説を棄ててクロイソスの意見をとり、トミュリスには自分の方から渡河して向かってゆくから、そちらは退くようにと通告しておいた。こうしてキュロスは麾下の軍隊と共に渡河した。 キュロスはアラクセス河から一日の行程を進んだあと、クロイソスの献策を実行した。準備を整え、キュロスと戦闘部隊だけを残して本隊はアラクセス河に引き上げると、マッサゲタイ人はその部隊の三分の一の勢力でキュロス軍の残留部隊に襲いかかり、抵抗するペルシア人を殺したが、用意された食事を見ると座り込んで食べ始め、腹いっぱいに平らげてしまった。ペルシア軍はマッサゲタイ人が満腹状態で酔いつぶれているところへ襲いかかり、その多数を殺したが、捕虜にした人数はさらに多く、その中にはマッサゲタイ人を指揮していたスパルガピセスというトミュリスの息子もいた。トミュリスは自軍と息子の身に起こったことを知らされると、使者をキュロスのもとへ送り、次のように伝えた。「マッサゲタイの三分の一もの部隊に狼藉を働いたそなたであるが、その罪は問わぬゆえ、私の息子を返し、この国を去れ。さもなければ、マッサゲタイ族の主なる日の神に誓って言うが、血に飽くなきそなたを血に飽かせてしんぜよう。」 この口述が伝えられても、キュロスは全く気にもかけなかった。一方、スパルガピセスが酔いから覚めて自分がどのような悲運に陥ったかを覚ると、縛りを解いてほしいと言ってきたので、キュロスは縛りを解いてやった。しかし、すかさずスパルガピセスは自決して果てた。 一方トミュリスは、キュロスが耳を貸さないと知ると、麾下の全兵力を集めてキュロスと戦った。まず、両軍は距離をおいて互いに弓矢で応酬していたが、やがて矢を射つくすと、槍と短剣でもって激突し、混戦となった。長時間にわたって戦い、互いに譲らず、双方ともに退こうとしなかったが、遂にマッサゲタイ軍が勝利し、ペルシアの大部分はここで撃滅され、キュロスも戦死した。 トミュリスは人血を満たした革袋を持ち、ペルシアの戦死者の間からキュロスの遺骸を探し当て、その首を取って革袋の中へ投げ込んだ。かく遺骸を辱めながら女王は言った。「私は生きながらえて戦いには勝ったが、所詮は我が子を謀略にかけて捕えたそなたの勝利であった。さあ約束通りそなたを血に飽かせてやろう。」
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ヘロドトスの記録
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「アルギッパイオイ」の記事における「ヘロドトスの記録」の解説
古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは『ヒストリアイ(歴史)』において次のように記している。 別種スキタイの地を過ぎれば、小石や岩だらけの荒地が続き、そこを過ぎると、高い山脈の麓に男女の関係なく全員、生まれながらにして禿頭の民族が住んでいる。獅子鼻で顎が張り、スキタイ風の服装をしているが、独自の言語を話し、木の実を常食としている。彼らの生活の糧となっている樹の名はポンティコンと言い、大きさはほぼ無花果の樹ほどで、扁豆によく似た果実がなり、この実には核がある。熟した実を布を通して搾ると、黒ずんだ濃い液が流れ出すが、これをアスキュと呼んでいる。彼らはこの汁をそのまま舐めたり、乳と混ぜて飲んだりし、また搾り糟の濃厚な部分で菓子のようなものを作って食べる。この地方には良い牧場がないため、家畜の数が少ないことによる。彼らはいずれも木陰を住み家とし、冬になると樹に白いフェルトをかけて住み、夏はそれを取る。この民族は神聖視されているので、彼らに危害を加える者は誰もおらず、また武器の類は一切ない。近隣の住民の争いを調停するのも彼らであるし、彼らを頼って避難して来た者は何人たりとも危害を加えられることはない。この民族の名はアルギッパイオイという。 — ヘロドトス『歴史』巻4-23
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