メディアの滅亡とハカーマニシュ朝とは? わかりやすく解説

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メディアの滅亡とハカーマニシュ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:59 UTC 版)

メディア王国」の記事における「メディアの滅亡とハカーマニシュ朝」の解説

585年にキュアクサレスは死亡し、その息子アステュアゲス王位継いだアステュアゲス長い治世メディア支配下にあったペルシアアンシャン)の王キュロス2世クル2世)の反乱関連付け記憶されている。メディア対すペルシア反乱については主にヘロドトスバビロニア年代記バビロニアナボニドゥスの夢文書Dream Text)という3つの史料記録残されている。これらは相互情報整合性ない場合もあるが、大筋においては合致する)。 ヘロドトスの記録明らかにメディア口承伝承基づいており、あらすじは以下のようなのであるメディアの王アステュアゲスは娘のマンダネ放尿して町中溢れアジア全土氾濫するという夢を見た夢占いの係からこれマンダネの産む子供アステュアゲスに代わって王となるという不吉な夢であることを確認したアステュアゲスは、マンダネメディア人の有力者結婚させることを避け、彼女が年頃になるとカンビュセス(カンブージャ)という名前のペルシア人結婚させた。ところが、結婚の後にもマンダネ陰部からブドウ生えアジア全土を覆うという夢を見たため、妊娠中だったマンダネ呼び戻し厳重な監視下に置いた。やがてマンダネ息子キュロスクル)を生むと、アステュアゲスはこの赤ん坊殺害配下ハルパゴス命じたが、ハルパゴスは自らの立場危ぶんで実行たらい回しにし、紆余曲折の末キュロス牛飼い夫婦の下で育つことになった牛飼い夫婦には死産し子供がおり、この子供とキュロス入れ替えて追及ごまかした。やがてキュロス成長して死んだはずのマンダネ息子であることが発覚すると、アステュアゲスハルパゴス命令実行しなかったことに怒りハルパゴス息子殺害してその肉をハルパゴス食べさせ、キュロスの方は体裁取り繕って彼をペルシアカンビュセス1世の下に送り出した。やがてキュロス長じて才覚見せると、ハルパゴスキュロス取り入ってアステュアゲス復讐しようと、メディアにおける反乱お膳立てし、ハルパゴスから反逆促されキュロスは元々メディア人の支配快く思ってなかったペルシア人支持得て反乱踏み切ったメディア軍の多く戦闘中寝返りキュロス率いペルシア軍はメディア軍を大い破った2度戦いの後アステュアゲス捕らえられメディア王国滅亡したキュロスその後、全アジア征服したハカーマニシュ朝/アケメネス朝)。 この物語反しバビロニア記録キュロスメディア王アステュアゲスの孫であるとは述べておらず、またキュロスメディア王臣下であったともしていない。キュロスは単に「アンシャンアンザン)の王」と呼ばれており、アステュアゲスはイシュトゥメグ(Ištumegu)と言う名前で「ウンマン=マンダ(Umman-manda、メディア)の王」と呼ばれている。メディア軍が「アンシャンの王」キュロス戦ったことは、新バビロニアの王ナボニドゥスの年代記(B.M.353782)にも記述があり、それによればナボニドゥス治世6年メディア王アステュアゲス(イシュトゥメグ)が軍を招集しアンシャン向けて行軍したが、軍隊反乱起こしてアステュアゲス捕らえキュロス引き渡したその後キュロスはアガムタヌ(Agamtanu、エクバタナ)まで進み、銀、金、その他の戦利品獲得したという。キュロス出生まつわるヘロドトス情報確かめる術はないが、バビロニア年代記の記録ヘロドトスの記録はその経過について概ね整合的である。アンシャンの王キュロスは、いわゆるハカーマニシュ朝アケメネス朝)の建国とされるキュロス2世クル2世)にあたる。彼がメディア王国征服したのは前550年のことと見られメディア旧領土はハカーマニシュ朝支配組み込まれた。この王朝ペルシア帝国とも呼ばれる独立したメディアの歴史叙述通常ここで終了するが、しかしメディア王国枠組み自体が完全に解体されわけではない考えられるメディアハカーマニシュ朝において特権的地位維持しメディア首都エクバタナハカーマニシュ朝の夏宮が置かれ、この州はペルシアに次ぐ第二地位占めていた。さらにハカーマニシュ朝バビロニア征服した際、その地に赴任した総督は、ナボニドゥスの年代記グティ人呼ばれていることからメディアであった可能性があり、その他のバビロニア文書からも、数多くメディア人がハカーマニシュ朝重要な官吏将軍王宮兵士として仕えていたことがわかる。ギリシア人ユダヤ人エジプト人たちはしばしハカーマニシュ朝支配メディア支配継続とみなし、ペルシア人を「メディア人」とも呼んだ。こうして、メディア人はハカーマニシュ朝歴史大きな影響残しつつ、ペルシア人同化ていった

※この「メディアの滅亡とハカーマニシュ朝」の解説は、「メディア王国」の解説の一部です。
「メディアの滅亡とハカーマニシュ朝」を含む「メディア王国」の記事については、「メディア王国」の概要を参照ください。

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