メディアの滅亡とハカーマニシュ朝
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「メディア王国」の記事における「メディアの滅亡とハカーマニシュ朝」の解説
前585年にキュアクサレスは死亡し、その息子アステュアゲスが王位を継いだ。アステュアゲスの長い治世はメディア支配下にあったペルシア(アンシャン)の王キュロス2世(クル2世)の反乱と関連付けて記憶されている。メディアに対するペルシアの反乱については主にヘロドトス、バビロニアの年代記、バビロニア王ナボニドゥスの夢文書(Dream Text)という3つの史料に記録が残されている。これらは相互の情報に整合性がない場合もあるが、大筋においては合致する)。 ヘロドトスの記録は明らかにメディアの口承伝承に基づいており、あらすじは以下のようなものである。メディアの王アステュアゲスは娘のマンダネが放尿して町中に溢れ、アジア全土に氾濫するという夢を見た。夢占いの係からこれがマンダネの産む子供がアステュアゲスに代わって王となるという不吉な夢であることを確認したアステュアゲスは、マンダネをメディア人の有力者と結婚させることを避け、彼女が年頃になるとカンビュセス(カンブージャ)という名前のペルシア人と結婚させた。ところが、結婚の後にもマンダネの陰部からブドウの樹が生え、アジア全土を覆うという夢を見たため、妊娠中だったマンダネを呼び戻し厳重な監視下に置いた。やがてマンダネが息子キュロス(クル)を生むと、アステュアゲスはこの赤ん坊の殺害を配下のハルパゴスに命じたが、ハルパゴスは自らの立場を危ぶんで実行をたらい回しにし、紆余曲折の末キュロスは牛飼いの夫婦の下で育つことになった。牛飼いの夫婦には死産した子供がおり、この子供とキュロスを入れ替えて追及をごまかした。やがてキュロスが成長して死んだはずのマンダネの息子であることが発覚すると、アステュアゲスはハルパゴスが命令を実行しなかったことに怒り、ハルパゴスの息子を殺害してその肉をハルパゴスに食べさせ、キュロスの方は体裁を取り繕って彼をペルシアのカンビュセス1世の下に送り出した。やがてキュロスが長じて才覚を見せると、ハルパゴスはキュロスに取り入ってアステュアゲスに復讐しようと、メディアにおける反乱をお膳立てし、ハルパゴスから反逆を促されたキュロスは元々メディア人の支配を快く思ってなかったペルシア人の支持を得て反乱に踏み切った。メディア軍の多くが戦闘中に寝返り、キュロス率いるペルシア軍はメディア軍を大いに破った。2度の戦いの後、アステュアゲスは捕らえられメディア王国は滅亡した。キュロスはその後、全アジアを征服した(ハカーマニシュ朝/アケメネス朝)。 この物語に反し、バビロニアの記録はキュロスがメディア王アステュアゲスの孫であるとは述べておらず、またキュロスがメディア王の臣下であったともしていない。キュロスは単に「アンシャン(アンザン)の王」と呼ばれており、アステュアゲスはイシュトゥメグ(Ištumegu)と言う名前で「ウンマン=マンダ(Umman-manda、メディア)の王」と呼ばれている。メディア軍が「アンシャンの王」キュロスと戦ったことは、新バビロニアの王ナボニドゥスの年代記(B.M.353782)にも記述があり、それによればナボニドゥス治世6年にメディア王アステュアゲス(イシュトゥメグ)が軍を招集しアンシャンに向けて行軍したが、軍隊が反乱を起こしてアステュアゲスを捕らえキュロスに引き渡した。その後キュロスはアガムタヌ(Agamtanu、エクバタナ)まで進み、銀、金、その他の戦利品を獲得したという。キュロスの出生にまつわるヘロドトスの情報を確かめる術はないが、バビロニアの年代記の記録とヘロドトスの記録はその経過について概ね整合的である。アンシャンの王キュロスは、いわゆるハカーマニシュ朝(アケメネス朝)の建国者とされるキュロス2世(クル2世)にあたる。彼がメディア王国を征服したのは前550年のことと見られ、メディアの旧領土はハカーマニシュ朝の支配に組み込まれた。この王朝はペルシア帝国とも呼ばれる。 独立したメディアの歴史叙述は通常ここで終了するが、しかしメディア王国の枠組み自体が完全に解体されたわけではないと考えられる。メディアはハカーマニシュ朝において特権的地位を維持し、メディアの首都エクバタナはハカーマニシュ朝の夏宮が置かれ、この州はペルシアに次ぐ第二の地位を占めていた。さらにハカーマニシュ朝がバビロニアを征服した際、その地に赴任した総督は、ナボニドゥスの年代記でグティ人と呼ばれていることからメディア人であった可能性があり、その他のバビロニアの文書からも、数多くのメディア人がハカーマニシュ朝の重要な官吏、将軍、王宮の兵士として仕えていたことがわかる。ギリシア人やユダヤ人、エジプト人たちはしばしばハカーマニシュ朝の支配をメディアの支配の継続とみなし、ペルシア人を「メディア人」とも呼んだ。こうして、メディア人はハカーマニシュ朝の歴史に大きな影響を残しつつ、ペルシア人と同化していった。
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