年代記の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 19:13 UTC 版)
初期の時代にはエールという人物に言及している記録が二つある。最も古いものは731年にノーサンブリアの修道士であるベーダによって書かれた『イングランド教会史』である。ベーダは、エールが「ハンバー川の南のすべての州」で「imperium」と呼ばれる権利を行使した最初のアングロサクソンの王であると記録している。「imperium」は通常「overloadship」と同義であるとされ、日本語では「命令権」あるいは「上帝権」として訳すことができる。ベーダはまたエーレののちの時代の君主を「天国に入る最初の王」と言及しており、これはエールがキリスト教徒ではなかったことを示している。 二つ目の記録は『アングロサクソン年代記』である。この年代記は890年、アルフレッド大王の治世下のウェセックス王国で収集された年代記の集積であり、以下の通りエールについて477年から491年までの3つの記録がある。 477:エールと彼の3人の息子、サイメンとレンシング、シッサは、三隻の船でブリテン島のサイメンの海岸という場所にたどり着いた。ここで彼らはたくさんのウェールズを殺し、他のウェールズはアンドレデスリーグと呼ばれる森に逃げ去った。 485:ここで、エールは、ミーアクレッヅ・バーンの辺境近くでウェールズと戦った。 491:ここで、エールとシッサはアンドレデス・セスターを包囲し、そこに住んでいたすべての人を殺し、ブリティッシュは一人も残らなかった。 年代記はエールが生きたとされる時代から400年後に編まれ、この年代記の編者はこれより以前の時代の年代記やサガをはじめとする口伝情報を情報源としたと考えられるが、これより以前の記録を辿ることは事実上不可能である。また、「ウェールズ」は「外国人」を意味するサクソン語であり、ここで「ブリティッシュ」と「ウェールズ」という用語は同じ意味で使用されていた。 上記のうち三つの地名はその場所を推測することができる: 「Cymen's shore」(原文では「Cymenes ora」)は、現在のイギリス南海岸のセルジー・ビル付近にある、オウァーと呼ばれる浅瀬と推測されている。オウァー(Ower)は、イングランド南部の方言であるoraという単語に由来するとされ、 サウサンプトンからボグナーまでの海岸沿いの低地はoraと呼ばれていた。 「アンドレデス・リーグ」と呼ばれる森はウィールドと呼ばれる、当時はハンプシャー北西部からサセックス北部まで広がっていた森林のことである。 「アンドレデス・セスター」はサクソン・ショア砦で、後半3世紀にローマへの反乱を起こしたカラウシウスによりペヴェンシー城に建てられた砦のことであるとされる。 年代記はその後の時代の項で8人の「ブレトワルダ」または「ブリテンの支配者」のうちで初代の人物としてエールに触れている。この8人は、ベーダが記録した7人にウェセックス王エグバートを付け加えたものである。この「ブレトワルダ」というある種の称号にどのような実態があったのかについては定説がなく、したがってエールの支配がどの程度まで及んだのかについては不明である。また、ベーダがエールの次のブレトワルダとして記録しているウェセックスのチェウリンとエールの時代の間に長い時間的ギャップがあることから、この期間にアングロサクソンの支配が何らかの形で中断された可能性がある。
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