年代記におけるイーゴリの遠征
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「イーゴリ遠征物語」の記事における「年代記におけるイーゴリの遠征」の解説
原初年代記のイパーチー写本によると、イーゴリは1185年4月23日火曜日に居城のあるノーヴゴロド・セーヴェルスキイを出発し、遠征にはイーゴリの弟フセヴォロド・スヴャトスラヴィチ、甥スヴャトスラフ、息子ヴラジーミルが参加した。5月1日の夕方、イーゴリ軍がドネツ川のほとりに差し掛ったとき日食が起こる(1185年5月1日の日食)。「よい前兆ではない」とする家来達を鼓舞して川を渡り、イーゴリはドネツ川の支流オスコル川まで進み、2日の間弟フセヴォロドを待った。フセヴォロドと合流したイーゴリがサリニツア川まで来たとき、ポロヴェツ軍を偵察した斥候が戻り「敵は武装して進軍中である」との報告がなされたが、イーゴリは退却は「死にもまさる屈辱」であるとして進軍をつづけた。5月10日金曜日、イーゴリ軍はポロヴェツの小部隊に遭遇し勝利を収めるが翌5月11日敵の大軍に包囲される。イーゴリの弟で「荒れ牛」と呼ばれたフセヴォロドの奮戦もあったが、5月12日日曜日の明方にはイーゴリ軍は壊滅しイーゴリら4人の公は皆ポロヴェツの捕虜となった。ポロヴェツ軍はそのままドニエプル川左岸地帯まで侵入し略奪をして引き上げた。6月、捕虜となったイーゴリはポロヴェツ人ラヴル(ヴルール、オヴルールとも)の協力により脱走、徒歩で11日間かけてドネツの町にたどりつき、そこからノヴゴロド・セーヴェルスキイに帰還した。なお息子ウラジーミルと弟フセヴォロドも後に帰国しているが、甥スヴャトスラフの消息は不明である。
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