年代記におけるイーゴリの遠征とは? わかりやすく解説

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年代記におけるイーゴリの遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 08:25 UTC 版)

イーゴリ遠征物語」の記事における「年代記におけるイーゴリの遠征」の解説

原初年代記イパーチー写本によると、イーゴリ1185年4月23日火曜日居城のあるノーヴゴロド・セーヴェルスキイ出発し遠征にはイーゴリの弟フセヴォロド・スヴャトスラヴィチ、甥スヴャトスラフ息子ヴラジーミル参加した5月1日夕方イーゴリ軍がドネツ川のほとりに差し掛ったとき日食が起こる(1185年5月1日の日食)。「よい前兆ではない」とする家来達を鼓舞して川を渡りイーゴリドネツ川支流オスコル川まで進み2日の間弟フセヴォロドを待った。フセヴォロドと合流したイーゴリがサリニツア川まで来たとき、ポロヴェツ軍を偵察した斥候戻り「敵は武装して進軍中である」との報告なされたが、イーゴリ退却は「死にもまさる屈辱」であるとして進軍つづけた5月10日金曜日イーゴリ軍はポロヴェツ小部隊に遭遇し勝利を収めるが翌5月11日敵の大軍包囲されるイーゴリの弟で「荒れ牛」と呼ばれたフセヴォロドの奮戦もあったが、5月12日日曜日の明方にイーゴリ軍は壊滅しイーゴリら4人の公は皆ポロヴェツ捕虜となったポロヴェツ軍はそのままドニエプル川左岸地帯まで侵入し略奪をして引き上げた6月捕虜となったイーゴリポロヴェツ人ラヴル(ヴルール、オヴルールとも)の協力により脱走徒歩11日間かけてドネツの町にたどりつき、そこからノヴゴロド・セーヴェルスキイに帰還した。なお息子ウラジーミルと弟フセヴォロドも後に帰国しているが、甥スヴャトスラフ消息不明である。

※この「年代記におけるイーゴリの遠征」の解説は、「イーゴリ遠征物語」の解説の一部です。
「年代記におけるイーゴリの遠征」を含む「イーゴリ遠征物語」の記事については、「イーゴリ遠征物語」の概要を参照ください。

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