年代記による戦いについての情報
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/08 06:42 UTC 版)
「青水の戦い」の記事における「年代記による戦いについての情報」の解説
幾つかの年代記にて戦いに関する報告が残されている。作者不明の年代記物語『ポジーリャについて』にて、タタール軍の3人の公の壊滅、ポジーリャの相続人、青水の戦いにおけるリトアニア大公アルギルダス率いる軍について初めて言及されている。ウクライナの歴史家Шабульдо Фによると物語の作者はリトアニアの高級政府官僚層と関係を持ち、, 同国とポーランド がポジーリャを巡って争っている真っ只中である1430年代初頭に自身の著作を著わした。ベラルーシの歴史及び史料学者でるВячеслав Чемерицкий は『ポジーリャ物語』には社会評論的な特徴があるが、同書の報告は基本的には歴史的事実と符合すると指摘する。『ポジーリャ物語』は日付抜きでこう伝える: 「 主君がリトアニアの地の大公アルギルダスになるや、リトアニアの軍勢は平原を進んで青水の地にて3人の兄弟且つ公であるクトゥルグ=ベイ、ハジ=ベイ、ディミタール率いるタタール軍に勝利した。汝は、3兄弟のタタールの地及び父祖の地たるポジーリャを、首領と軍勢を率き、首領を突くことでポジーリャの地を得た。 」 最終的な編纂が1396年の秋に行われた『ロゴジスク年代記』は以下の通りに伝えている: «Въ лѢто 6871… Того же лѢта Литва взяли Коршевъ и сотворишас[я] мятежи и тягота людемъ по всеи земли. Тое же осени Олгрд Синю воду и БѢлобережїе повоевалъ»。同じく1520年代末の『ニーコン年代記全集』にも幾つかは省かれているが、会戦に関する情報が保存されている。 最後に『グスティンスカヤ年代記』はこう伝える: 「 В лѢто 6870… В сіє лѢто Ольгерд побѢди трех царков Татарских из ордами их, си єсть, Котлубаха, Качзея, Дмитра; и оттоли от Подоля изгна власть Татарскую. Сей Олгерд и иныя Рускія державы во власть свою пріят, и Кіев под Федором князем взят, и посади в нем Володымера сына своего, и нача над сими владѢти, им же отци его дань даяху. 」 。 後の信頼に足りない『ヴィホヴィエッツ年代記』によると会戦は1351年に行われた。
※この「年代記による戦いについての情報」の解説は、「青水の戦い」の解説の一部です。
「年代記による戦いについての情報」を含む「青水の戦い」の記事については、「青水の戦い」の概要を参照ください。
- 年代記による戦いについての情報のページへのリンク