年代記における描写
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 02:06 UTC 版)
「燃える人の舞踏会」の記事における「年代記における描写」の解説
「燃える人の舞踏会」は4人の貴族が死亡した重大事件であり、当時の複数の年代記がこの出来事を記録した。中でも著名なのはジャン・フロワサールとミシェル・パントワン(英語版)による記録であり、それらの記録に挿絵を加えた装飾写本も多数のちに作成された。2つの記録は基本的な点については共通しており、両者とも野蛮人に仮装した者たちがダンスを披露したこと、シャルル6世が事なきを得たこと、仮装した者の1人が大桶に飛び込んだこと、最終的に4人が死亡したことを述べているが、フロワサールが仮装した者たちは互いに鎖でつながれていたと述べる一方で、パントワンはそのことに一切言及しないなど、細部の説明には不一致が見られる。野蛮人のダンスが行われた意図についても食い違いが見られ、歴史家スーザン・クレーンによれば、パントワンが野蛮人のダンスは乱暴な「シャリバリ(英語版)」であったと述べ、また観衆も踊りに参加したとする一方、フロワサールは野蛮人のダンスは一種の演劇であって、観衆が参加することはなかったとしている。 フロワサールが『年代記』第4巻(1389年-1440年を扱う)に残した「燃える人の舞踏会」についての記述は、歴史家カテリーナ・ナラによって、著者であるフロワサールが「この出来事について否定的である」ために「厭世感に満ちている」と評されている。フロワサールが惨事を招いた人物としてオルレアン公ルイを非難する一方で、パントワンは野蛮人のダンスを考案したユゲ・ド・ギゼを主に非難しており、ド・ギゼは生まれが卑しい召使いを動物扱いすることで万人から嫌われていたために、「貴族たちは彼の苦しみに満ちた死を喜んだ」と述べている。 パントワンが著した年代記における舞踏会の記録は、シャルル6世の治世における約25年間を扱った『シャルル6世の歴史(Histoire de Charles VI )』に含まれている。パントワンが野蛮人のダンスは社会的道徳観に反したものであり、王がそれに参加したのは軽率であったと批判的な姿勢を示している一方で、フロワサールは王の参加したダンスが単なる祝賀行事であったと述べている。 専門家は、フロワサールもしくはパントワンが「燃える人の舞踏会」に居合わせていたか否かは不明であるとしている。クレーンは、フロワサールの記録は舞踏会の約5年後に、パントワンの記録は約10年後に作成されたものであるとしている。ヴィーンストラは、パントワンが舞踏会での出来事を直接目撃していた可能性はあると推測しており、彼の記録はフロワサールのものよりも正確であると考えている。パントワンの年代記はシャルル6世の宮廷を理解するにあたって不可欠なものと広く考えられているが、その内容の中立性は作者の親ブルゴーニュ派・反オルレアン派的なスタンスによって損なわれている可能性があり、王と王妃の否定的な描写につながっているという指摘がある。事件の第3の記録は、15世紀半ばのジャン・ジュヴェナル・デ・ジュルサンによる伝記『フランス王シャルル6世の歴史(L'Histoire de Charles VI: roy de France)』に含まれているが、これは1614年になるまで出版されなかった。 ハーレアン・コレクション(英語版)の一部として大英図書館に所蔵されているフロワサールの『年代記』の写本(1470年-1472年作)には、「野蛮人のダンス(Dance of the Wodewoses)」と題する姓名不詳の画家によるミニアチュールが含まれている。その後1480年ごろに作成された『年代記』の写本にも、「仮装ダンスで起こった火災(Fire at a Masked Dance)」と題する同じく姓名不詳の初期フランドル派画家によるミニアチュールが含まれている。15世紀にルイ・ド・グルートゥーズ(英語版)が作らせた『年代記』の写本 (フランス国立図書館所蔵, BnF Fr 2643-6) にも舞踏会を描いたミニアチュールが含まれている。1508年ごろには、マリー・ド・クレーヴのために作成されたと思われる『年代記』の写本がパリで出版された。この本には25ものミニアチュールがページの余白に描かれているが、唯一「燃える人の舞踏会」のイラストには1ページが丸ごと費やされている。
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