燃える人の舞踏会とは? わかりやすく解説

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燃える人の舞踏会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/08 15:00 UTC 版)

燃える人の舞踏会(もえるひとのぶとうかい、: Bal des Ardents)または野蛮人の舞踏会: Bal des Sauvages[1])は、1393年1月28日パリで開催された仮装舞踏会[注釈 1]。この舞踏会においてフランス王シャルル6世は、5人の貴族と共に仮装してダンスを披露した。その際、シャルル6世の弟ルイ・ド・ヴァロワが会場に持ち込んだ松明を火元とする火災が発生し、ダンスを行った6人のうちの4人が焼死したが、シャルル6世ともう1人の貴族は事なきを得た。パリ市民はこの出来事を宮廷が堕落している証左であると考え、支配層の貴族に対して反乱を起こす兆候を示した。一般市民の怒りを鎮めるため、王と王弟ルイは罪を償うための苦行の実施を強いられた。


注釈

  1. ^ この催しを仮装舞踏会とするか仮面劇とするかは情報源によって異なる。
  2. ^ 4人のうち、アンジュー公ルイブルゴーニュ公フィリップ(豪胆公)、ベリー公ジャンの3人はシャルル5世の兄弟。ブルボン公ルイはシャルル6世の母ジャンヌ・ド・ブルボンの兄[3]
  3. ^ 歴史家ロバート・クネヒト英語版によって「ヨーロッパ最強の王子の1人」と評されている人物[4]
  4. ^ ミシェル・パントワン英語版はド・ファスタヴェランが過去に3度夫を失っており、これが4度目の結婚であったと主張している[15]
  5. ^ パントワンは王の参加したダンスを「あらゆる良識に逆行する」ものと評している[30]

出典

  1. ^ a b c Veenstra (1997), 89–91
  2. ^ a b Tuchman (1978), 503
  3. ^ a b Tuchman (1978), 367
  4. ^ qtd. in Knecht (2007), 42
  5. ^ a b c Knecht (2007), 42–47
  6. ^ a b c d Tuchman (1978), 496–499
  7. ^ qtd. in Tuchman (1978), 498
  8. ^ a b Henneman (1996), 173–175
  9. ^ Seward (1987), 143
  10. ^ qtd. in Seward (1987), 144
  11. ^ Gibbons (1996), 57–59
  12. ^ Tuchman (1978), p502
  13. ^ a b c d e f g h i j Tuchman (1979), 503–505
  14. ^ qtd. in Tuchman (1978), 503
  15. ^ Veenstra (1997), 90
  16. ^ a b Veenstra (1997), 91
  17. ^ qtd. in MacKay (2011), 167
  18. ^ Stock (2004) 159–160
  19. ^ Heckscher, 241
  20. ^ Tuchman (1978), 380
  21. ^ qtd. in Nara (2002), 237
  22. ^ Veenstra (1997), 60, 91, 95
  23. ^ Wagner (2006), 88; Tuchman (1978), 515–516
  24. ^ Tuchman (1978), 516
  25. ^ a b c Crane (2002), 155–159
  26. ^ qtd. in Nara (2002), 230
  27. ^ Nara (2002), 237
  28. ^ Crane (2002), 157
  29. ^ Guenée, Bernard. (1994). "Documents insérés et documents abrégés dans la Chronique du religieux de Saint- Denis". Bibliothèque de l'école des chartes. Vol. 152, No. 2, 375–428. Retrieved April 18, 2012.
  30. ^ Tuchman (1978), 504
  31. ^ a b "Catalogue of Illuminated Manuscripts". British Library. Retrieved January 2, 2012
  32. ^ Veenstra (1997), 22
  33. ^ Adams (2010), 124
  34. ^ Curry (2000), 128; Famiglietti (1995), 505
  35. ^ "Catalogue of Illuminated Manuscripts". British Library. Retrieved March 3, 2012
  36. ^ "Illuminating the Renaissance". J. Paul Getty Trust. Retrieved January 2, 2012
  37. ^ Winn, Mary Beth. (1997). Anthoine Vérard: Parisian publisher 1485–1512: Prologues, Poems, and Presentations. Geneva: Library Droz. ISBN 978-2-600-00219-6


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燃える人の舞踏会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 06:49 UTC 版)

シャルル6世 (フランス王)」の記事における「燃える人の舞踏会」の解説

詳細は「燃える人の舞踏会」を参照 1393年1月29日、ある女官結婚を祝うため、王妃イザボーサン・ポール館で仮装舞踏会開催した。ユゲ・ド・ギゼという貴族提案により、この舞踏会シャルル6世は他の4人の貴族たちと共に野蛮人」に仮装してダンス披露することとなった野蛮人コスチューム松脂染み込ませたリネンに麻を張り付けたもので、シャルルたち踊り手全身けむくじゃら見えるようにしたものだった。踊り手1人であるイヴァン・ド・フォワの勧めにより、王は松明持ったに対して野蛮人ダンス」には近寄らず部屋の端に立つことを事前に命じていたが、会場遅れて来た王弟オルレアン公ルイがそれに反して松明踊り手1人に近づけたため、誤ってそのコスチュームに火をつけてしまった。火は瞬く間燃え広がり会場パニック陥ったが、ベリー公ジャンヌ2世とっさに自らのガウントレーンシャルルにかぶせ、火の粉から王を守った数人騎士は炎を消そうとして重い火傷負った野蛮人仮装した者のうち、ヴァレンティノワ伯の息子エメリー・ド・ポワティエ、ユゲ・ド・ギゼ、イヴァン・ド・フォワ、ジョワニー伯の4人が火傷によって死亡した。ナンテュイエ伯の息子ジャン洗い水の入った飛び込むことで一命とりとめた

※この「燃える人の舞踏会」の解説は、「シャルル6世 (フランス王)」の解説の一部です。
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