ヴァロワ朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 02:57 UTC 版)
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ヴァロワ朝(ヴァロワちょう、フランス語: dynastie des Valois)は、中世フランス王国の王朝。1328年から1589年まで続いた。
1328年にカペー朝が断絶したため、カペー家の支流でヴァロワを所領とするヴァロワ家からフィリップ6世が即位してヴァロワ朝が始まった。初期には1339年に勃発した百年戦争に苦しんだが、この戦争を通じて英仏両国で国民意識が形成された。1491年のシャルル8世の代にブルターニュ女公アンヌとの結婚によってフランスを再統一することを果たしたが、直後に直系が断絶し、傍系に引き継がれつつ1589年までの間で13代の王が続いた。
歴史
成立と百年戦争
カペー朝第10代国王フィリップ3世の子のシャルルが1285年にヴァロワ伯に封じられ、ヴァロワ家を創始した。1328年にカペー朝が断絶し、シャルルの子フィリップ6世が諸侯の推挙により即位し、ヴァロワ朝が成立した。
ところが、当時のイングランド国王エドワード3世も女系でカペー家の血を引いていたことから、フランス王位並びにフランス北部における領土を要求し、1337年から百年戦争が始まった。
名将エドワード黒太子率いるイングランド軍の攻勢の前に、フランス軍は連戦連敗を喫した。フィリップ6世の子ジャン2世などは黒太子に敗れて捕虜となったほどである。しかしジャン2世の子シャルル5世(賢明王)は優秀で、フランス王国を再建することに成功した。しかしそのシャルルが1380年に食中毒のため死去すると、再びフランス軍はイングランド軍の前に連戦連敗を喫し、遂にはイングランド国王がフランス国王に推戴されるまでになり、王国存亡の危機にまで立たされた。
そのような中でシャルル7世の時代に現れたジャンヌ・ダルクの活躍により、フランス軍はイングランド軍に対して反攻を開始する。ジャンヌは後にイングランド軍の捕虜となって火あぶりにされたが、フランス軍の攻勢の前にイングランド軍は敗戦を重ね、1453年に百年戦争はフランスの勝利で幕を閉じた。
イタリア戦争
フランスを事実上統一したヴァロワ朝は、イタリアへと領土的野心を向け、シャルル8世は1494年にイタリア戦争を開始する。1498年、ヴァロワ家嫡流はシャルル8世の死去で断絶し、シャルル5世の子のオルレアン公ルイの孫であるヴァロワ=オルレアン家のルイ12世が即位した。
1515年に死去したルイ12世にも世継ぎがなく、同じくオルレアン公ルイの孫であるヴァロワ=アングレーム家の従兄アングレーム伯シャルルの子フランソワ1世が王位を継承した。以後、フランソワ1世からアンリ3世まで5代の王が続いた。
その間も続いていたイタリア戦争では、同じように統一を果たしたスペインと対立し、後にはスペインとオーストリアのハプスブルク家によって挟撃され、国力は衰えた。その後、フランスでは宮廷内部の権力闘争や宗教紛争が相次いだ。このような中で王朝も衰退し、1589年に第13代国王アンリ3世が宗教紛争の最中に一聖職者ジャック・クレマンによって暗殺された。アンリ3世には子がなかったため、ヴァロワ朝は断絶し、ブルボン朝に代わった。
こうしてヴァロワ家の嫡流は途絶えたが、王位継承権のない庶流はその後も続いた。オルレアン公ルイの庶子であるジャンを祖とし、ロングウィル公となったオルレアン=ロングヴィル家は17世紀末まで存続し、シャルル9世の庶子であるアングレーム公シャルルを祖とする家系も17世紀初期まで存続した。また、アンリ2世の庶子であるアンリ・ド・サン=レミを祖とする家系は19世紀末まで存続し、首飾り事件で有名なジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロワ はこの家系の出身と言われている。
歴代国王
ヴァロワ家
- フィリップ6世(幸運王 le Fortuné 1328年–1350年)
- ジャン2世(善良王 le Bon 1350年–1364年)
- シャルル5世(賢明王 le Sage 1364年–1380年)
- シャルル6世(狂気王 le Fou 1380年–1422年)
- シャルル7世(勝利王 le Victorieux 1422年–1461年)
- ルイ11世(慎重王 le Prudent 1461年–1483年)
- シャルル8世(温厚王 l'Affable 1483年–1498年)
ヴァロワ=オルレアン家
- ルイ12世(民の父王 le Père du Peuple 1498年–1515年)
ヴァロワ=アングレーム家
- フランソワ1世(1515年–1547年)
- アンリ2世(1547年–1559年)
- フランソワ2世(1559年–1560年)
- シャルル9世(1560年–1574年)
- アンリ3世(1574年–1589年)[1]
系図
フィリップ6世(幸運王) |
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ジャン2世(善良王) |
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シャルル5世(賢明王) |
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(ブルゴーニュ公) フィリップ2世(豪胆公) |
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シャルル6世(狂気王) | (オルレアン公) ルイ |
(ヴァロワ=ブルゴーニュ家) |
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シャルル7世(勝利王) | シャルル | (アングレーム伯) ジャン |
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ルイ11世(慎重王) | ルイ12世 | シャルル |
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シャルル8世(温厚王) |
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フランソワ1世 |
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マルグリット | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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フランソワ2世 | シャルル9世 | アンリ3世 | マルグリット |
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(ブルボン朝) アンリ4世 |
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脚注
関連項目
ヴァロワ朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:09 UTC 版)
1328年にカペー朝が断絶したことなどを契機とする百年戦争の最中、パリ商人頭となったエティエンヌ・マルセルは王に匹敵する権力を持ち、王と対立した。シャルル5世は、1356年から1383年にかけて新たな城壁(シャルル5世の城壁)を築いて市域を拡大させ、1370年にサン=タントワーヌ要塞(のちのバスティーユ牢獄)を築いた。また、ルーヴル宮殿を王宮とした。 15世紀初めにおいても、パリの支配権と王および王族の確保をめぐって、オルレアン派(のちにアルマニャック伯を頼って同盟した後アルマニャック派)とブルゴーニュ派との対立である百年戦争が、イングランドをも巻き込んで続いていた。ジャンヌ・ダルクの活躍などもあり、1435年のアラスの和約でブルゴーニュ派と和解して勢力を伸ばしたシャルル7世率いるフランス軍は1436年にパリを奪還し、翌1437年に改めてパリが首都と定められた。その後、1453年にフランスにおけるイングランド領の大半が陥落したことにより、百年戦争は終結した。百年戦争後のパリの人口は10万人程度にまで減少していた。 この後もフランス王はパリには住まず、ブロワ城やアンボワーズ城などのロワール渓谷の城を好んだ。特にフランソワ1世は、ロワールにシャンボール城を築いたほか、パリ近郊にフォンテーヌブロー宮殿を発展させた。もっともフランソワ1世は、公式的には1528年にパリを居城と定めた。パリでは学術が発展し、コレージュ・ド・フランスにおいて、大学教育課程(理論とリベラルアーツ)が近代教育課程に加えられ、王が望んだ人文主義や正確な科学が研究されるようになった。 16世紀後半、ユグノー戦争の時代にはパリはカトリック派の拠点であり、1572年にはサン・バルテルミの虐殺が起こってプロテスタントが殺害されるなどした。シャルル9世を継いだアンリ3世は平和的な解決を模索したが、民衆は反乱し、バリケードの日と呼ばれる1588年5月12日にアンリ3世を強制追放した。このときからパリは、16区総代会(Seize)という組織によって統治されるようになった。 その後、カトリック派からの反発を招いたアンリ3世が暗殺され、ヴァロワ朝は断絶した。
※この「ヴァロワ朝」の解説は、「パリ」の解説の一部です。
「ヴァロワ朝」を含む「パリ」の記事については、「パリ」の概要を参照ください。
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