サン・バルテルミの虐殺
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サン・バルテルミの虐殺(サン・バルテルミのぎゃくさつ フランス語:Massacre de la Saint-Barthélemy)は、1572年8月24日にフランスのカトリックがプロテスタントを大量虐殺した事件である。
注釈
- ^ 1533年にはパリ大学総長がルターに依拠して演説し、1534年にはカトリックのミサ聖祭の中止を訴える檄文事件が起こっている。
- ^ コリニー提督は国王に対してスペイン領ネーデルラントに介入するよう働きかけていた。Knecht(1998), p.154–57.
- ^ 歴史家たちの様々な解釈については Holt(1995), pp.83–4.を参照。
- ^ 歴史家マック・P・ホルトはパリに依然として滞在していた「24人から36人の貴族」であったであろうと推測している。Holt(1995), p. 85.
- ^ 歴史家ホルトはカトリックの廷臣たちが指導者ではないプロテスタント個人を救った事例を示して「大虐殺が阻止される可能性があったが一方で、宮廷の高官が虐殺を意図していた証拠はなかった」と結論付けている。Holt(2005), pp. 88-91
- ^ 期間は Garrisson(2000), p. 139, より、また同書では虐殺のあった都市にアルビを加えている。
- ^ ジャニーン・ギャリソンはこの事がボルドーの「火薬に点火した」(met le feu au poudres)とする見方には否定的である。Garrisson(2000), pp. 144-45
- ^ 19世紀半頃における推定値は、その他の詳細とともにユグノーの政治家および歴史家であるフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーの著作 A Popular History of France from the Earliest Times, Volume IVに要約されている。
- ^ アクトン卿はこの件について詳細に検討し、「8000人以上である証拠はない」と結論付け、同時代の良質史料は常に最少の人数を示していると述べている。- Lectures on Modern History, "The Huguenots and the League", pp 162–163.
- ^ ヘンリー・ホワイトは詳細に検討して、歴史家たちの推定値の一覧を作成しており、その最大は10万人である。彼自身の推定値は2万人である。White(1868),p.472.
- ^ グレゴリウス13世とモールヴェールの件に関する根本史料はフランス国立図書館に所蔵されている当時の外交文書であり、"De la Ferrière, Lettres de Catherine de Médicis vol. 4 "(Paris: Imprimerie Nationale, 1891)でも解説されている。
出典
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サン・バルテルミの虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 14:01 UTC 版)
「カトリーヌ・ド・メディシス」の記事における「サン・バルテルミの虐殺」の解説
詳細は「サン・バルテルミの虐殺」を参照 結婚式に参列するため、コリニー提督をはじめとする多数のユグノー貴族がパリに滞在した。式の3日後、コリニー提督がルーヴル宮から宿へ帰る途中で銃撃を受け、手と腕を負傷した。窓に置かれた発煙している火縄銃が発見されたが、犯人は建物の裏手に用意していた馬に乗って逃亡している。コリニー提督は宿舎へ運び込まれ、外科医アンブロワーズ・パレが肘から弾丸を摘出し、負傷した指を切断した。カトリーヌは無感動にこの知らせを受け取ると、コリニー提督を訪ねて涙を流し、犯人を罰すると約束した。一般的にはカトリーヌがコリニー提督襲撃の首謀者だとされるが、他にギーズ家黒幕説、コリニー提督の国王への影響を止めようとするスペイン人教皇による陰謀説などがある。真実がいずれにあったにせよ、その後の流血事件はカトリーヌやその他の指導者たちの統制を超えるものとなった。 この2日後の8月24日(サン・バルテルミの祝日)、ギーズ公に率いられた兵士の一団がコリニー提督を襲撃、殺害した。これを契機に民衆暴動が起き、兵士とカトリック市民がユグノー貴族だけでなくプロテスタント市民をも大量虐殺する事態へと発展する。このサン・バルテルミの虐殺はカトリーヌの評判を大きく傷つけることになった。虐殺の前日にシャルル9世が発した「そうだ皆殺しだ!皆殺しにしろ!」との命令にカトリーヌが関与していなかったと信じる理由はない。道理は明白である。カトリーヌと顧問官たちはユグノーがコリニー提督襲撃への復讐を求めて武装蜂起することを予期しており、それ故に彼らはユグノーの指導者たちが結婚式のためパリに滞在している間に先制して彼らを粛清することを選択したのである。 パリにおける虐殺はおよそ1週間続いた。虐殺はフランス各地に広まり、秋まで続いた。歴史家ジュール・ミシュレは「サン・バルテルミは一日ではなく、一季節だった」と述べている。9月29日、ナバラ王は死を免れるためにカトリックに改宗して聖壇に跪き、カトリーヌは外国の大使たちに向き合い、哄笑した。この日から邪悪なイタリア人母后の伝説が生まれた。ユグノーの記録者たちは、マキャヴェッリの原則に基づき一撃で敵を皆殺しにした狡猾なイタリア人のレッテルをカトリーヌに貼るようになる。
※この「サン・バルテルミの虐殺」の解説は、「カトリーヌ・ド・メディシス」の解説の一部です。
「サン・バルテルミの虐殺」を含む「カトリーヌ・ド・メディシス」の記事については、「カトリーヌ・ド・メディシス」の概要を参照ください。
サン・バルテルミの虐殺
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「ユグノー戦争」の記事における「サン・バルテルミの虐殺」の解説
詳細は「サン・バルテルミの虐殺」を参照 この当てにならない和平にもかかわらず、ルーアン、オランジュ、パリなどの都市ではカトリックの群衆によるユグノー虐殺が続いていた。宮廷の事情は更に複雑で、シャルル9世がユグノーたち、とりわけコリニー提督と結びつき始めた。一方、王太后カトリーヌはコリニー提督とその支持者たちの権勢の拡大を食い止められないこと、特にコリニー提督がイングランドやネーデルラント反乱軍との同盟を主張していたことが明らかになると、次第に脅威を感じ始める。 1572年8月18日、コリニー提督やその他のカルヴァン派貴族たちが王女マルグリットとプロテスタントのナバラ王アンリ(同年6月の母の死により王位を継承)の結婚式に参列するためパリにやって来た。8月22日、通りの窓からコリニー提督を狙撃する暗殺未遂事件が起こる。歴史家の間では暗殺者がシャルル・ド・ルビエであることは定説になっているものの、暗殺の指示者は明らかになっていない(カトリーヌが指示したとの広く知られる説は当てにならない)。 ユグノーによる報復クーデターを恐れたギーズ公アンリとその一派は行動を起こし、8月24日早朝に従者とともに宿屋にいたコリニー提督を襲撃して殺害した。コリニー提督の死体は窓外へ投げ出され、その後、死体はパリ市民によって無残に切り刻まれ、切断されて、群衆の中を引き回された末に川に投げ込まれ、絞首台に釣り上げられた後に焼かれた。その後5日間にわたって大規模な虐殺が行われ、カルヴァン派は男も、女もそして子供までも殺され、彼らの家々は略奪された。これらの蛮行に王の許可はなく、予測もされないことだった。5週間にわたり、十数の都市で無秩序が広まった。結局、パリではおよそ2000人のユグノーが虐殺され、地方ではおそらく1万人が犠牲となった。ナバラ王アンリと従弟コンデ公アンリは、カトリックへの改宗に応じたことで辛うじて死を免れた。 スペイン王フェリペ2世とローマ教皇グレゴリウス13世はこの結果に対する満足の意を表明したが、ヨーロッパ中のプロテスタントたちには恐怖と憤慨を引き起こしている。フランスではユグノーたちが恐慌状態になり、カトリックへ改宗する者が続出し、一部は国外に亡命して、王家に対抗するユグノーの力が酷く弱まってしまった。 一方で、残ったプロテスタントはより過激になり、君主を選ぶ権利は人民にあり、君主が暴政を行うならば追放することができるとする「暴君放伐論」が唱えられた。また、法曹家を中心とした穏健なカトリック教徒たちはカトリック過激派の暴走を危惧し、王国の分裂を防ぐためにカトリックとプロテスタントとの融和とより強い王権の確立を主張するようになり、彼らはポリティーク派と呼ばれた。
※この「サン・バルテルミの虐殺」の解説は、「ユグノー戦争」の解説の一部です。
「サン・バルテルミの虐殺」を含む「ユグノー戦争」の記事については、「ユグノー戦争」の概要を参照ください。
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