コリニー提督の宮廷復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 23:42 UTC 版)
「サン・バルテルミの虐殺」の記事における「コリニー提督の宮廷復帰」の解説
サン=ジェルマンの和議により、ユグノーには礼拝の自由と4ヶ所の安全保障都市(ラ・ロシェル、ラ・シャリテ=シュル=ロワール、コニャック、モントーバン)が与えられた。 強硬派カトリックを率いるギーズ家が宮廷で忌避される一方で、1571年9月にユグノーの指導者コリニー提督が国務会議に復帰した。カトリックたちはプロテスタントの宮廷復帰に衝撃を受けたが、母后カトリーヌ・ド・メディシスと国王シャルル9世は内戦を再開させない決意をしていた。彼らは王国財政の困難を自覚しており、このため平和を維持し、コリニー提督と友好的な関係を保とうとしていた。ところが、国王シャルル9世本人がコリニー提督に強く傾倒するようになり、国王は彼を「よき友」「父上」と呼ぶまでになってしまう。 国王の信頼を得たコリニー提督は、サン=ジェルマンの和議の適用をユグノー側に有利に進めさせる。1569年にユグノーをかばった罪で処刑されたフィリップ・ド・ガスティーヌの邸宅に立てられた十字架の問題が熱心なカトリックであるパリ市民の不満を煽ることになった。この十字架は群集がガスティーヌの邸宅を打ち壊したさいに立てられたものであったが、和議の適用を実施するカトリックとプロテスタントの混合委員会はユグノーにとって侮辱である十字架をイサン墓地へ移すよう命じた。高等法院とパリ市長はこれに反対して問題が紛糾し、結局、12月に民衆の抵抗を排除して十字架は取り除かれたが、この際に約50人が犠牲となり、群集による家屋打ち壊しが起こっている。 1572年5月にルートヴィヒ・フォン・ナッサウ(英語版)率いるユグノー軍が国境を越えてネーデルラント領エノーへ侵攻し、モンスとヴァランシエンヌを占領したとの報告がパリへもたらされると緊張はより一層高まった。ルートヴィヒ・フォン・ナッサウはネーデルラントでスペインに対する反乱を起こしたオランジュ公ウィレム1世の弟であり、兄に代わって南フランスのオランジュ公国(英語版)を統治していた人物だった。カトリックはコリニー提督がオランダ人の側に立って参戦するよう国王を説得していると信じた。事実、コリニー提督はネーデルラントでの戦争に介入するようシャルル9世を説得しており、前年の10月にはこれに成功していたが、カトリーヌがこの決定を覆している。
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