ヴァランシエンヌ
ヴァランシエンヌ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 00:56 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動Valenciennes | |
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行政 | |
国 | ![]() |
地域圏 (Région) | オー=ド=フランス地域圏 |
県 (département) | ノール県 |
郡 (arrondissement) | ヴァランシエンヌ郡 |
INSEEコード | 59606 |
郵便番号 | 59300 |
市長(任期) | ドミニク・リケ (2008年-2014年) |
人口動態 | |
人口 | 42,426人 (2006年) |
人口密度 | 3,065人/km2 |
地理 | |
座標 | 北緯50度13分 東経3度19分 / 北緯50.21度 東経3.31度座標: 北緯50度13分 東経3度19分 / 北緯50.21度 東経3.31度 |
標高 | 平均:42 m 最低:17 m 最高:56 m |
面積 | 13.84km2 |
ヴァランシエンヌ (Valenciennes) はフランス北部ノール県ヴァランシエンヌ郡にあるコミューン。スヘルデ川流域に位置する。1975年から1990年の間、この街や地域の人口は減少していた。1999年の国勢調査では街の人口は41,278人、都市圏の人口は399,677人であった。
歴史
ヴァランシエンヌは、西暦693年にクローヴィス2世によって書かれた法律文書によって、初めて記述された。843年のヴェルダン条約において、ヴァランシエンヌはネウストリアとアウストラシアの中立都市となった。9世紀後半にノルマン人による征服を受け、881年に街は彼らに引き渡された。923年に神聖ローマ帝国より独立していたロタリンギア公国に引き継がれた。フランク王国が設立した年代の考古学的記録は公開されていないが、街はこの時期発展し始めた。神聖ローマ帝国のオットー朝時代、街は帝国国境の市場の中心地であった。
1008年、飢饉がペスト菌による疫病をもたらした。
ゆかりのある有名人
- イザベル・ド・エノー : フランス王妃
- ボードゥアン1世 (ラテン皇帝) : ラテン帝国皇帝、イザベル・ド・エノーの弟
- アントワーヌ・ヴァトー : 画家
- クロード・ル・ジュヌ:作曲家
- ジャン・フロワサール : 作家
- シャルル・ナンジェッセ : パイロット
- アルノー・デプレシャン : 映画監督
スポーツ
姉妹都市
外部リンク
- ヴァランシエンヌ市公式ページ (フランス語)
ヴァランシエンヌ
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「フランスのレース」の記事における「ヴァランシエンヌ」の解説
18世紀には連続糸のボビンレースであった。網目は当初円いものであったが、1740年頃、四角くなった。グランドは非常にはっきりとし、輪郭は明確で、緻密なクリームのような白さが特徴であった。フランスのレースはヴァランシエンヌの影響で、ニードルレース以上の評判を得た。
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