ラテン‐ていこく【ラテン帝国】
ラテン帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/16 13:55 UTC 版)
ラテン帝国(ラテンていこく、英語: Latin Empire / Latin Empire of Constantinople)は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)[注釈 4]から奪ったコンスタンティノープルに第4回十字軍の指導者らが建国した封建制十字軍国家である。
注釈
- ^ 東ローマ帝国は1261年にミカエル8世パレオロゴスの下でコンスタンティノープルを取り戻した。
- ^ 国境は明確ではない。
- ^ (コンスタンティノープルは1261年に東ローマ帝国に復帰していたが、)1273年から1283年までラテン皇帝の称号を有した、フィリップ1世・ド・クルトネーにより使われた国章。このデザインは時として、近世の紋章学において「コンスタンティノープルの皇帝の紋章」として示された[2]。
- ^ 「東ローマ帝国」や「ラテン帝国」といった用語は、当時の帝国そのもの、またはその他の世界によって使われた当時の言葉ではなかった。ラテン帝国という国名は東ローマ帝国側からの呼称。
- ^ ロマニアとは「ローマ人の土地」の意味で東ローマ帝国の後継国家を目指す意味を持っていた。「ロマニア」という語は数世紀にわたり、東ローマ帝国臣民によって自国のために非公式に使われた。
- ^ これは前東ローマ皇妃(ハンガリー王女)と結婚して、ギリシア、ハンガリーの支持を得たモンフェッラート侯ボニファーチョ1世が強力になるのを恐れたヴェネツィア側が、より弱体なフランドル伯を支持したためであり、ボニファーチョ1世はこれを不満とし、最初から不協和音が流れていた。
- ^ ここでの「公国(英語: duchy)」という語は、旧東ローマ帝国領で通常ドゥクスによって管理されたテマ制という語が、属州を指定するために使われていたことを反映する[7]。
- ^ 4分の1。
出典
- ^ a b c d Матанов 2014, p. [要ページ番号]
- ^ Hubert de Vries, (2011年). “Byzantium: Arms and Emblems”. hubert-herald.nl. 2016年11月10日閲覧。
- ^ ヘリン 2010, p. 349.
- ^ ヘリン 2010, p. 367.
- ^ 井上 & 栗生沢 1998, p. 184.
- ^ 井上 2005, p. 194.
- ^ Hendrickx 2015, pp. 305–306, 309.
- ^ Hendrickx 2015, pp. 308–310.
- ^ Hendrickx 2015, p. 308.
- ^ a b 森安 & 今井 1981, p. 123.
- ^ Андреев & Лалков 1996, pp. 168–171.
- ^ Fine 1987, pp. 81–82.
- ^ Hendrickx 2015, pp. 308–309.
- ^ Hendrickx 2015, p. 309.
- ^ Андреев & Лалков 1996, p. 167.
- ^ Kazhdan 1991, p. 1095.
- ^ Андреев & Лалков 1996, pp. 171–172.
- ^ 井上 & 栗生沢 1998, p. 180.
- ^ 井上 2005, p. 198.
- ^ a b 森安 & 今井 1981, p. 124.
- ^ 杉村 1988, p. 80.
- ^ 杉村 1988, p. 81.
- ^ Андреев & Лалков 1996, pp. 185.
- ^ Андреев & Лалков 1996, pp. 190–191.
- ^ 根津 2011, p. 92.
- ^ 井上 2005, p. 200.
- ^ ヘリン 2010, p. 396.
- 1 ラテン帝国とは
- 2 ラテン帝国の概要
- 3 国名
- 4 脚注
ラテン帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 04:03 UTC 版)
新たにラテン帝国(- 1261年)が作られ、皇帝にはフランドル伯ボードゥアン9世が選ばれた。領土はヴェネツィアやモンフェラート侯(テッサロニキ王国)等の主要参加諸侯で分割された。教皇は、コンスタンティノープル攻撃に怒ったが、攻略成功後は東西教会の統合を祝福した。その後、十字軍にエジプトへの出立を促したが、彼らは獲得した領土に居座って、再び出立することはなかった。彼らの多くは、シリアやパレスチナより国土が豊かな東ローマの征服に満足していたし、それ以上に現地の反乱やニカイア帝国、ブルガリア帝国の侵攻への対処に忙しく、外征どころではなかった。 十字軍による東ローマ攻略を、史学者堀米庸三は「金時計を手にした複数の野蛮人のようなもの」と表現している。すなわち、一人が黄金のケースを、一人がぜんまいを、一人が針を分けるようなもので、各部品が互いに連絡を欠いては機能しないのだと。十字軍領主下でばらばらの領邦に分割されたラテン帝国が、かつての東ローマ帝国に匹敵するような有力な政治的・経済的存在となることはなかった。 一方、東ローマの皇族たちは帝国周辺の各地に亡命し、小アジア西部のニカイア帝国、小アジア北東部のトレビゾンド帝国、バルカン半島南西部のエピロス専制侯国などを立てた。
※この「ラテン帝国」の解説は、「第4回十字軍」の解説の一部です。
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