第4回十字軍
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第4回十字軍(だい4かいじゅうじぐん)は、インノケンティウス3世によって呼びかけられ、1202年から1204年までフランスの諸侯とヴェネツィアを中心として行われた十字軍。当初の目的であった聖地には向かわず、キリスト教国の東ローマ帝国を攻略し、首都・コンスタンティノポリスを陥落させ、略奪・殺戮の限りを尽くしたため、最も悪名の高い十字軍として知られる。
- ^ 高橋保行『東方の光と影』103頁、春秋社 (1991-05-30出版)ISBN 9784393261033 (4393261038)
- 1 第4回十字軍とは
- 2 第4回十字軍の概要
- 3 背景
- 4 ヴェネツィア
- 5 影響
- 6 参考文献
第4回十字軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:42 UTC 版)
詳細は「第4回十字軍」を参照 1202年 - 1204年 ローマ教皇インノケンティウス3世の呼びかけにより実施。エルサレムではなくイスラムの本拠地エジプト攻略を目ざす。しかし渡航費にも事欠くありさまで、十字軍の輸送を請け負ったヴェネツィアの意向を受けて輸送料の不足分支払のためハンガリーのザラ(現在のクロアチアのザダル)を攻略、同じキリスト教(カトリック)国を攻撃したことで教皇から破門される。ついで東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを征服、この際十字軍側によるコンスタンティノポリス市民の虐殺や掠奪が行われた。フランドル伯ボードゥアンが皇帝になりラテン帝国を建国。やむなく教皇は追認し、さらにエルサレムを目指し遠征するよう要請するが実施されなかった。東ローマ帝国はいったん断絶し、東ローマの皇族たちは旧東ローマ領の各地に亡命政権を樹立した(東ローマ帝国は57年後の1261年に復活)。なお、このコンスタンティノポリスの攻防を巡ってはジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン (十字軍側)とニケタス・コニアテス(東ローマ側)という2人の優れた歴史家が記録を遺していることでも知られている。
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第4回十字軍
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1202年、エジプト(アイユーブ朝)侵攻を目的とする第4回十字軍が結成されたが、この十字軍は軍資金が乏しく、遠征できる財政状態では無かった。彼らの輸送や軍備を請け負ったダンドロだが、合意した金額を十字軍が支払えないことが判明。ダンドロは請求を放棄して資金援助とする代わりに、自分と敵対するザラを攻撃するよう十字軍に交渉を持ちかけ(主要な交易相手国のエジプトを攻撃されては困るため矛先を変更させた)、その提案が通った。ダンドロは自ら十字軍と共にザラ攻略に参加、到着するやザラ市民に最後通牒を告げると、11月24日に彼ら十字軍はザラを攻め落としてしまった。宗教理由ではない紛争に加わらぬよう要請していたローマ教皇のインノケンティウス3世はこれに激怒し(しかもザラは、ローマ教皇庁に協力的なハンガリー王国のイムレが統治していた)、ザラ略奪を行ったヴェネツィアの十字軍を全て破門にした。後の弁明を受けて破門が解けたこともあり、ダンドロと第4回十字軍の侵攻はさらに続いた。 ザラ攻略の直後、彼らは東ローマ帝国の皇位継承問題に介入する。帝位を追われたイサキオス2世の息子であるアレクシオス4世アンゲロスの要請を受け、ダンドロはアレクシオス4世を東ローマ帝国の帝位に据えるという十字軍指導者の計画(アレクシオスが十字軍遠征の費用を負担するほか、莫大な報奨金の見返りもあった)に同意。ダンドロと十字軍は1204年4月、コンスタンチノープルを攻撃して当時の東ローマ第3代皇帝アレクシオス3世アンゲロスを追放、イサキオス父子を皇帝に据えた。 しかしながら、この父子は報奨金の約束を履行する前にアレクシオス5世ドゥーカスの反乱によって殺害されてしまう。また、第5代新皇帝が報奨支払いを拒否したため、ダンドロは十字軍と協力してコンスタンチノープルを再度攻略してアレクシオス5世を殺し、東ローマ帝国を滅ぼしてラテン帝国を成立させた。初代皇帝にダンドロを推す声もあったが、彼は帝位を拒否してフランドル伯ボードゥアンを推挙、ボードゥアンがラテン帝国の皇帝となった。ダンドロ自身は、東ローマ帝国旧領のうちコンスタンチノープルの約半分、イオニア海沿岸、クレタ島などをヴェネツィア領に加え、ヴェネツィア共和国の国際的立場をさらに高めると共に、東地中海の制海権を掌握することに成功した。この時、ダンドロはコンスタンチノープルで略奪した高価な品々をヴェネツィアに送り、現在でも馬4頭のブロンズ像がサン・マルコ寺院の装飾品となっている。 エンリコは1205年にコンスタンチノープルで死去し、ハギア・ソフィアに埋葬された。ただし、今の墓標は19世紀にイタリアの修復チームが設置したもの。1453年にこの地を征服したオスマン帝国が、ハギア・ソフィアをモスクとして改造した際に墓を潰したため、墓所の正確な位置は分かっていない。彼の死後、ヴェネツィアで留守を守っていた息子のラニエリ(ルニエロ)を後継元首に推す声が高まったが、ラニエリは「共和国で親子が続けて元首となった例はない」としてこれを拒否し、ピエトロ・ヅィアニの元首就任を支持した。息子ラニエリは後にヴェネツィア軍によるクレタ島攻略に将軍として参加して戦死したが、その子孫はたびたびヴェネツィア元首の地位に就任している。
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第4回十字軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:15 UTC 版)
十字軍兵士と首都市民の対立やヴェネツィアと帝国との軋轢も増し、1204年4月13日、第4回十字軍はヴェネツィアの助言の元にコンスタンティノポリスを陥落させてラテン帝国を建国。東ローマ側は旧帝国領の各地に亡命政権を建てて抵抗することとなった。
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