第4回十字軍とは? わかりやすく解説

第4回十字軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/05 22:37 UTC 版)

第4回十字軍(だい4かいじゅうじぐん)は、インノケンティウス3世によって呼びかけられ、1202年から1204年までフランス諸侯ヴェネツィアを中心として行われた十字軍。当初の目的であった聖地には向かわず、キリスト教国の東ローマ帝国を攻略し、首都・コンスタンティノポリスを陥落させ、略奪・殺戮の限りを尽くしたため、最も悪名の高い十字軍として知られる。


  1. ^ 高橋保行『東方の光と影』103頁、春秋社 (1991-05-30出版)ISBN 9784393261033 (4393261038)


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第4回十字軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:42 UTC 版)

十字軍」の記事における「第4回十字軍」の解説

詳細は「第4回十字軍」を参照 1202年 - 1204年 ローマ教皇インノケンティウス3世呼びかけにより実施エルサレムではなくイスラム本拠地エジプト攻略目ざす。しかし渡航費にも事欠くありさまで、十字軍輸送請け負ったヴェネツィア意向受けて輸送料の不足分支払のためハンガリーザラ現在のクロアチアザダル)を攻略、同じキリスト教カトリック)国を攻撃したことで教皇から破門される。ついで東ローマ帝国首都コンスタンティノポリス征服この際十字軍側によるコンスタンティノポリス市民虐殺掠奪が行われた。フランドル伯ボードゥアン皇帝になりラテン帝国建国やむなく教皇追認し、さらにエルサレム目指し遠征するよう要請する実施されなかった。東ローマ帝国はいったん断絶し東ローマ皇族たちは旧東ローマ領の各地亡命政権樹立した東ローマ帝国57年後の1261年復活)。なお、このコンスタンティノポリス攻防巡ってジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン十字軍側)とニケタス・コニアテス東ローマ側)という2人優れた歴史家記録を遺していることでも知られている。

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第4回十字軍

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エンリコ・ダンドロ」の記事における「第4回十字軍」の解説

1202年エジプトアイユーブ朝侵攻目的とする第4回十字軍が結成されたが、この十字軍軍資金乏しく遠征できる財政状態では無かった。彼らの輸送軍備請け負ったダンドロだが、合意した金額十字軍支払えないことが判明ダンドロ請求放棄して資金援助とする代わりに自分と敵対するザラ攻撃するよう十字軍交渉持ちかけ(主要な交易相手国のエジプト攻撃されては困るため矛先変更させた)、その提案通ったダンドロは自ら十字軍と共にザラ攻略参加到着するザラ市民に最後通牒告げると、11月24日に彼ら十字軍ザラ攻め落としてしまった。宗教理由ではない紛争に加わらぬよう要請していたローマ教皇インノケンティウス3世はこれに激怒し(しかもザラは、ローマ教皇庁協力的なハンガリー王国イムレ統治していた)、ザラ略奪行ったヴェネツィア十字軍全て破門にした。後の弁明受けて破門解けたこともあり、ダンドロと第4回十字軍の侵攻はさらに続いたザラ攻略直後、彼らは東ローマ帝国皇位継承問題介入する帝位追われイサキオス2世息子であるアレクシオス4世アンゲロス要請を受け、ダンドロアレクシオス4世東ローマ帝国帝位据えるという十字軍指導者計画アレクシオス十字軍遠征費用を負担するほか、莫大な報奨金見返りもあった)に同意ダンドロ十字軍1204年4月コンスタンチノープル攻撃して当時東ローマ第3皇帝アレクシオス3世アンゲロス追放イサキオス父子皇帝据えたしかしながら、この父子報奨金約束履行する前にアレクシオス5世ドゥーカス反乱によって殺害されてしまう。また、5代新皇帝が報奨支払い拒否したため、ダンドロ十字軍協力してコンスタンチノープル再度攻略しアレクシオス5世殺し東ローマ帝国滅ぼしてラテン帝国成立させた。初代皇帝ダンドロ推す声もあったが、彼は帝位拒否してフランドル伯ボードゥアン推挙ボードゥアンラテン帝国皇帝となったダンドロ自身は、東ローマ帝国旧領のうちコンスタンチノープル約半分イオニア海沿岸クレタ島などをヴェネツィア領に加えヴェネツィア共和国国際的立場をさらに高めと共に東地中海制海権掌握することに成功した。この時、ダンドロコンスタンチノープル略奪した高価な品々ヴェネツィア送り、現在でも馬4頭のブロンズ像サン・マルコ寺院装飾品となっている。 エンリコ1205年コンスタンチノープル死去しハギア・ソフィア埋葬された。ただし、今の墓標19世紀イタリア修復チーム設置したもの。1453年にこの地を征服したオスマン帝国が、ハギア・ソフィアモスクとして改造した際に墓を潰したため、墓所正確な位置分かっていない。彼の死後ヴェネツィア留守守っていた息子ラニエリ(ルニエロ)を後継元首推す声が高まったが、ラニエリは「共和国親子続けて元首となった例はない」としてこれを拒否し、ピエトロ・ヅィアニの元首就任支持した息子ラニエリは後にヴェネツィア軍によるクレタ島攻略将軍として参加して戦死したが、その子孫はたびたびヴェネツィア元首地位就任している。

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第4回十字軍

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東ローマ帝国」の記事における「第4回十字軍」の解説

十字軍兵士首都市民対立ヴェネツィア帝国との軋轢増し1204年4月13日、第4回十字軍はヴェネツィア助言元にコンスタンティノポリス陥落させてラテン帝国建国東ローマ側は旧帝国領各地亡命政権建てて抵抗することとなった

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