フランドル伯とは? わかりやすく解説

フランドル伯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/23 03:15 UTC 版)

フランドル伯の紋章

フランドル伯フランス語: Comte de Flandre)は、現在のベルギー北部、フランス北部のフランドル864年から1795年まで支配した領主、またはその称号。

歴史

成立から最盛期まで

フランドル地方はフランク王国分割の際に843年ヴェルダン条約では中フランク王国に属したが、870年メルセン条約では西フランク王国に大部分が併合された。フランドル伯は形式上は西フランク王の封建臣下となったが、東西フランク王国(後にはフランス王国神聖ローマ帝国)の緩衝地帯として両国と関係しながらも大幅な独立性を保っていた。フランドル家カロリング家イングランド王アルフレッド大王の血統を引いた名家であり、ノルマンディー公ギヨーム2世(イングランド王ウィリアム1世)やフランス王フィリップ2世はフランドル伯家と婚姻することにより、王としての正統性を高めている。

フランドル伯家は、イングランド王家やフランス王家と繋がりを保ちながら婚姻政策を中心にエノー伯領、アルトワ伯領など周辺の領域に勢力を広げ、その支配地域は、11世紀頃からイングランドから輸入した羊毛から生産する毛織物によりヨーロッパの経済の中心として栄えた。ボードゥアン7世が跡継ぎ無く死去すると一時、後継争いが激しくなり混乱したが、アルザス家のティエリがフランドル伯位を継いで安定した。十字軍にも参加し、1202年第4回十字軍ではボードゥアン9世ラテン皇帝となっている。

しかし、この後は女性領主が続き、経済的には最盛期が続いていたが、都市市民の力が強くなり、一方ではフランス王権がフィリップ2世以降非常に強力になったため、その圧迫を受けることになった。またダンピエール家の継承時に継承戦争が起こり、フランス王の干渉を招いたが、この結果エノー伯領等が分離し、伯権は弱体化した。

フランスによる併合

フランス王フィリップ4世は豊かなフランドル地方の支配を狙い、当時のフランドル伯ギー・ド・ダンピエールはイングランド王エドワード1世と結んで対抗した。1297年にフィリップ4世はフランドルの併合を宣言し、1300年にギーを捕らえて、ジャック・ド・シャティヨンをフランドル総督に任命した。

しかし、その支配が過酷だったため、1302年5月18日にブルッヘにおいて市民の反乱が起こり、フランス人が虐殺された。再び侵攻して来たフランス軍に対しフランドルの諸都市は同盟を結んでこれに抵抗し、1302年7月11日にコルトレイクにおける金拍車の戦い歩兵中心のフランドルの都市連合軍が騎士中心のフランス軍を破った。これにより、その後も和睦と戦闘を繰り返しながらフランドル伯家は存続した。

百年戦争以降

百年戦争時にもフランドル伯はしばしばイングランド側に与した。マルグリット3世ヴァロワ・ブルゴーニュ家フィリップ2世と結婚して以降はブルゴーニュ公と同君連合となる。そして同家はフランスのブルゴーニュ公としてよりフランドルの君主としての利害を重視するようになり、仏王家としばしば対立した。シャルル2世豪胆公が戦死した後は、その娘マリーと結婚したマクシミリアン1世ハプスブルク家に受け継がれた。

カール5世によってハプスブルク家がスペイン系とオーストリア系に分けられると、伯位はスペイン系が受け継いだ。スペイン継承戦争の後にオーストリア系に譲渡され、1795年フランス革命戦争によってフランドル伯の称号は廃止された。

ベルギー王国の成立後、王族の儀礼称号として復活したが、2001年に再び廃止された。

歴代フランドル伯

フランドル祖家

エストリゼン家(ダヌマルク家)

ノルマンディー家

アルザス家

エノー家(フランドル家)

ダンピエール家

ヴァロワ=ブルゴーニュ家

アブスブール家

ブルボン=アンジュー家

アブスブール家

アブスブール=ロレーヌ家

サクス=コブール・エ・ゴータ家/ベルジック家

関連項目


フランドル伯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 09:48 UTC 版)

ギヨーム・クリトン」の記事における「フランドル伯」の解説

ルイ6世ギヨーム側について、1127年多大な努力をした。1月、彼はセーヌ川下流からノルマンディー攻撃する拠点としてフランス領ヴェクサンにある王領授けた。そして王妃アデル・ド・サヴォワ異父妹であるジョヴァンナ・デル・モンフェラートとギヨーム結婚させた。1127年3月、フランドル伯シャルル暗殺されると、ルイ肥満王はギヨーム運命をさらに良い方向へ向ける機会与えた。彼は軍隊先頭立ってフランドル入り3月30日新し伯爵としてギヨーム受け入れるよう当地男爵たちを味方にした(ギヨームはフランドル伯ボードゥアン5世ひ孫にあたる)。 当初5月末までに伯領の大部分確保しギヨーム善処した。しかし、イングランドからの資金ティエリー・ダルザスという競争相手出現が、ギヨーム立場悪化つながった1128年2月サントメールヘント3月にはブルッヘが、ギヨーム反旗を翻した1128年5月リールティエリー迎え入れギヨームフランドル南の国境地帯をわずかに統制するにすぎなかった。しかしギヨームブルッヘ打って戻り6月21日のアクスポールの戦いでノルマンフランス騎士同盟軍とともにティエリー破った。 この時点ギヨーム側にブラバント公ジョフロワ加わり7月12日アールスト包囲した。しかし、包囲戦過程ギヨーム歩兵との乱闘で腕を負傷した。傷が壊疽となって1128年7月28日忠実な義兄エリアス・ド・サン・サーンスに看取られ、ギヨーム死んだギヨーム遺体サントメールのサン・ベルタン修道院運ばれ埋葬された。ギヨーム子供はなく、ウェールズ幽閉の身であったロベールはそれから6年後に死んだ

※この「フランドル伯」の解説は、「ギヨーム・クリトン」の解説の一部です。
「フランドル伯」を含む「ギヨーム・クリトン」の記事については、「ギヨーム・クリトン」の概要を参照ください。

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