オランダ総督とは? わかりやすく解説

オランダ総督

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/07 01:01 UTC 版)

オランダ総督(オランダそうとく、: stadhouder, : stadtholder)は、広義には16世紀から18世紀にかけてのネーデルラント連邦共和国オランダ王国の前身)における各の首長。狭義にはその中でも特に有力で、ゼーラント州など他の州の総督も兼ね、事実上の世襲君主として君臨したホラント州の総督を指す。

ただしこのstadtholderの訳語に、植民地の長官を意味するgovernorの訳語としてすでに定着している「総督」を充てるのは、意味上の混乱を招きやすく不都合なため、今日ではオランダ総督に代えてオランダ統領と表現することも見られるようになった。

概要

元は15世紀以降、ネーデルラント17州を統治していたハプスブルク家の君主が、有力なネーデルラント貴族を(本来の意味での)総督(あるいは知事)に任命し、各州の統治を委ねたことが起源である。ネーデルラント随一の貴族であり、後に八十年戦争を主導したオラニエウィレム1世も、はじめはスペインフェリペ2世によって総督に任じられていた。

1568年に始まる八十年戦争でネーデルラント各州はフェリペ2世に対し反乱を起こし、やがて北部7州は新たな君主を戴くことなく連邦共和国として独立を果たした。連邦共和国の体制においては、7つの州の議会それぞれが君主に代わって自ら総督を指名した。総督は州の首長として議会を主導し、法の執行を監督し、役職者の任免を行なった。総督の地位は初期を除けばほとんどオラニエ=ナッサウ家の当主であるオラニエ公、およびその傍系ナッサウ=ディーツ家の世襲であった。ウィレム1世以来歴代のオラニエ公のほとんどは、連邦の7州の中心的存在であるホラント州の他4 - 5の州の総督を兼ね、残りの州の総督はウィレム1世の弟ナッサウ=ディレンブルク伯ヨハン6世の家系であるナッサウ=ディーツ家が占めた。ホラント州とゼーラント州の総督(ウィレム1世以後常に兼任された)は慣習的に連邦議会から陸海軍総司令官にも任命されており、その権力は大きく、実質的に君主に近い存在であった。

こうした総督=オラニエ公の権勢に対して反発する勢力もあり、イングランド王を兼ねたウィレム3世の総督時代(1672年 - 1702年)を挟んで1650年から1747年の間に、2度にわたって主要な州で総督を置かなかった時代がある(無総督時代)。しかし1747年オーストリア継承戦争に巻き込まれてフランス軍の侵攻を受けた連邦共和国は、イギリスの後押しもあって、ウィレム4世を7州全ての総督に指名し、その地位の世襲を宣言した。この全州総督の地位はウィレム5世に継承され、フランス革命戦争の中で連邦共和国が崩壊する1795年まで続いた。

脚注

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参考文献

関連項目


オランダ総督

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 09:03 UTC 版)

ウィリアム3世 (イングランド王)」の記事における「オランダ総督」の解説

オランダフランス1662年から同盟結んでいたが、貿易上の対立ルイ14世スペイン領ネーデルラント併合野望から起こったネーデルラント継承戦争危機感抱いたデ・ウィットは、イングランド外交官ウィリアム・テンプル組んで1668年にイングランド・スウェーデンと三国同盟締結戦争終結させた。しかし、1670年ルイ14世チャールズ2世ドーヴァーの密約を結び、神聖ローマ帝国諸侯のほとんどとも同盟中立関係を築き1672年スウェーデンとも仏瑞同盟結んでオランダ包囲網築いたため、オランダ孤立したまた、ウィレム3世支持者による突き上げから、デ・ウィットウィレム3世陸軍総司令官任命したが、総督への就任認められないままであった1672年フランス軍オランダに侵攻しオランダ侵略戦争開始されるオランダ大半占領されアムステルダム占領危機瀕すると、民衆ウィレム3世総督就任共和政府の打倒叫びウィレム3世総督就任デ・ウィットとその兄コルネリス・デ・ウィット暴徒によって殺害され無総督時代終焉した。それまでオランダブルジョワ政治家たちに排斥され総督世襲阻まれていたウィレム3世であったが、就任後1673年オーストリアスペイン同盟結んで逆にフランス包囲する形勢作りフランス軍への徹底抗戦貫きオランダ国内で抵抗続けたその後オランダ出てオーストリア将軍ライモンド・モンテクッコリドイツ合流しフランス軍補給基地ボン落とし同年のうちにフランス軍撤退させた。これ以降ウィレム3世ルイ14世仇敵となる。 戦争スペイン領ネーデルラントへと移りウィレム3世同盟軍率いてフランス将軍コンデ公ルイ2世リュクサンブール公フランソワ・アンリ・ド・モンモランシーとネーデルラント戦ったコンデリュクサンブールとの戦いではしばし敗北重ねたりスネッフの戦いカッセルの戦いサン=ドニの戦い)、ネーデルラント都市奪われたりしているが、戦略他国結んだオランダが有利であり、1678年締結されナイメーヘンの和約オランダ領土保全ウィレム3世一躍プロテスタント英雄となったフランス組んで戦ったイングランド海軍提督ミヒール・デ・ロイテル活躍オランダ上陸阻止1674年イングランド和睦し第三次英蘭戦争を終わらせ、1677年に駐大使となっていたテンプルチャールズ2世側近のダンビー伯トマス・オズボーン周旋で、ロンドンチャールズ2世の弟ヨーク公ジェームズの娘メアリー結婚したジェームズ母方叔父であり、妻とは従兄妹の関係になる。メアリーは背が高く大柄で、背の低いウィレム3世とは似合い夫婦ではなかった。夫婦仲良くなく、ウィレム3世には別にエリザベス・ヴィリアーズという愛人があり(後にオークニージョージ・ダグラス=ハミルトン結婚)、同性愛的傾向もあったが、メアリー敬意を払うことだけは忘れなかった。 戦後ルイ14世領土拡大狙いナイメーヘンの和約獲得した領土付随する過去書類記録され領土併合する動きに出ると、迎撃出ようとしたが諸国出だしが遅れ、アムステルダム出兵反対に遭ったため、1681年から1684年にかけてルクセンブルク・ストラスブールなどライン川沿岸領土フランス占領されてしまい、反省からアムステルダムをはじめ国内宥和努めた一方イングランド王位継承問題揺れるとイングランド一部政治家オランダ訪問するようになり、イングランドとの関わり深まっていった。 1685年チャールズ2世亡くなりヨーク公ジェームズ即位すると、チャールズ2世庶子であるモンマス公ジェームズ・スコットイングランド挙兵したが、短期間ジェームズ2世鎮圧された(モンマスの反乱)。ウィレム3世王位継承問題亡命していた従兄モンマス公をしばしば歓待していたが、反乱に際してジェームズ2世援軍送っている。

※この「オランダ総督」の解説は、「ウィリアム3世 (イングランド王)」の解説の一部です。
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