オランダ総督
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オランダ総督(オランダそうとく、蘭: stadhouder, 英: stadtholder)は、広義には16世紀から18世紀にかけてのネーデルラント連邦共和国(オランダ王国の前身)における各州の首長。狭義にはその中でも特に有力で、ゼーラント州など他の州の総督も兼ね、事実上の世襲君主として君臨したホラント州の総督を指す。
ただしこのstadtholderの訳語に、植民地の長官を意味するgovernorの訳語としてすでに定着している「総督」を充てるのは、意味上の混乱を招きやすく不都合なため、今日ではオランダ総督に代えてオランダ統領と表現することも見られるようになった。
概要
元は15世紀以降、ネーデルラント17州を統治していたハプスブルク家の君主が、有力なネーデルラント貴族を(本来の意味での)総督(あるいは知事)に任命し、各州の統治を委ねたことが起源である。ネーデルラント随一の貴族であり、後に八十年戦争を主導したオラニエ公ウィレム1世も、はじめはスペイン王フェリペ2世によって総督に任じられていた。
1568年に始まる八十年戦争でネーデルラント各州はフェリペ2世に対し反乱を起こし、やがて北部7州は新たな君主を戴くことなく連邦共和国として独立を果たした。連邦共和国の体制においては、7つの州の議会それぞれが君主に代わって自ら総督を指名した。総督は州の首長として議会を主導し、法の執行を監督し、役職者の任免を行なった。総督の地位は初期を除けばほとんどオラニエ=ナッサウ家の当主であるオラニエ公、およびその傍系ナッサウ=ディーツ家の世襲であった。ウィレム1世以来歴代のオラニエ公のほとんどは、連邦の7州の中心的存在であるホラント州の他4 - 5の州の総督を兼ね、残りの州の総督はウィレム1世の弟ナッサウ=ディレンブルク伯ヨハン6世の家系であるナッサウ=ディーツ家が占めた。ホラント州とゼーラント州の総督(ウィレム1世以後常に兼任された)は慣習的に連邦議会から陸海軍総司令官にも任命されており、その権力は大きく、実質的に君主に近い存在であった。
こうした総督=オラニエ公の権勢に対して反発する勢力もあり、イングランド王を兼ねたウィレム3世の総督時代(1672年 - 1702年)を挟んで1650年から1747年の間に、2度にわたって主要な州で総督を置かなかった時代がある(無総督時代)。しかし1747年、オーストリア継承戦争に巻き込まれてフランス軍の侵攻を受けた連邦共和国は、イギリスの後押しもあって、ウィレム4世を7州全ての総督に指名し、その地位の世襲を宣言した。この全州総督の地位はウィレム5世に継承され、フランス革命戦争の中で連邦共和国が崩壊する1795年まで続いた。
脚注
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参考文献
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関連項目
オランダ総督
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「ウィリアム3世 (イングランド王)」の記事における「オランダ総督」の解説
オランダとフランスは1662年から同盟を結んでいたが、貿易上の対立とルイ14世のスペイン領ネーデルラント併合の野望から起こったネーデルラント継承戦争で危機感を抱いたデ・ウィットは、イングランドの外交官ウィリアム・テンプルと組んで1668年にイングランド・スウェーデンと三国同盟を締結、戦争を終結させた。しかし、1670年にルイ14世はチャールズ2世とドーヴァーの密約を結び、神聖ローマ帝国の諸侯のほとんどとも同盟・中立関係を築き、1672年にスウェーデンとも仏瑞同盟を結んでオランダ包囲網を築いたため、オランダは孤立した。また、ウィレム3世の支持者による突き上げから、デ・ウィットはウィレム3世を陸軍総司令官に任命したが、総督への就任は認められないままであった。 1672年、フランス軍がオランダに侵攻し、オランダ侵略戦争が開始される。オランダの大半が占領され、アムステルダムも占領の危機に瀕すると、民衆がウィレム3世の総督就任と共和政府の打倒を叫び、ウィレム3世が総督に就任、デ・ウィットとその兄コルネリス・デ・ウィットが暴徒によって殺害され、無総督時代が終焉した。それまでオランダのブルジョワ政治家たちに排斥されて総督の世襲を阻まれていたウィレム3世であったが、就任後の1673年にオーストリアやスペインと同盟を結んで逆にフランスを包囲する形勢を作り、フランス軍への徹底抗戦を貫き、オランダ国内で抵抗を続けた。その後、オランダを出てオーストリアの将軍ライモンド・モンテクッコリとドイツで合流し、フランス軍の補給基地ボンを落とし、同年のうちにフランス軍を撤退させた。これ以降、ウィレム3世はルイ14世の仇敵となる。 戦争はスペイン領ネーデルラントへと移り、ウィレム3世は同盟軍を率いてフランスの将軍コンデ公ルイ2世とリュクサンブール公フランソワ・アンリ・ド・モンモランシーとネーデルラントで戦った。コンデとリュクサンブールとの戦いではしばしば敗北を重ねたり(スネッフの戦い、カッセルの戦い、サン=ドニの戦い)、ネーデルラントの都市を奪われたりしているが、戦略上他国と結んだオランダが有利であり、1678年に締結されたナイメーヘンの和約でオランダは領土を保全、ウィレム3世は一躍プロテスタントの英雄となった。 フランスと組んで戦ったイングランドは海軍提督ミヒール・デ・ロイテルの活躍でオランダ上陸を阻止、1674年にイングランドと和睦して第三次英蘭戦争を終わらせ、1677年に駐蘭大使となっていたテンプルとチャールズ2世の側近のダンビー伯トマス・オズボーンの周旋で、ロンドンでチャールズ2世の弟ヨーク公ジェームズの娘メアリーと結婚した。ジェームズは母方の叔父であり、妻とは従兄妹の関係になる。メアリーは背が高く大柄で、背の低いウィレム3世とは似合いの夫婦ではなかった。夫婦仲は良くなく、ウィレム3世には別にエリザベス・ヴィリアーズという愛人があり(後にオークニー伯ジョージ・ダグラス=ハミルトンと結婚)、同性愛的傾向もあったが、メアリーに敬意を払うことだけは忘れなかった。 戦後、ルイ14世が領土拡大を狙い、ナイメーヘンの和約で獲得した領土に付随すると過去の書類に記録された領土を併合する動きに出ると、迎撃に出ようとしたが諸国の出だしが遅れ、アムステルダムの出兵反対にも遭ったため、1681年から1684年にかけてルクセンブルク・ストラスブールなどライン川沿岸の領土をフランスに占領されてしまい、反省からアムステルダムをはじめ国内の宥和に努めた。一方、イングランドが王位継承問題で揺れるとイングランドの一部の政治家がオランダを訪問するようになり、イングランドとの関わりが深まっていった。 1685年にチャールズ2世が亡くなりヨーク公ジェームズが即位すると、チャールズ2世の庶子であるモンマス公ジェームズ・スコットがイングランドで挙兵したが、短期間でジェームズ2世に鎮圧された(モンマスの反乱)。ウィレム3世は王位継承問題で亡命していた従兄のモンマス公をしばしば歓待していたが、反乱に際してはジェームズ2世に援軍を送っている。
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