陸軍総司令官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:29 UTC 版)
「ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ」の記事における「陸軍総司令官」の解説
1938年にブロンベルク罷免事件が起き、陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュが罷免されると、後任にブラウヒッチュが第2代陸軍総司令官に任命され、上級大将に昇進した。1938年から1941年まで務め、ヒトラーの戦争政策に追従する。第二次世界大戦初期のポーランド、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランス、バルカン半島諸国との戦闘で勝利を収めた。フランス戦勝利の後、陸軍元帥に列せられる。1940年12月には、同盟国である日本より航空総監兼航空本部長山下奉文陸軍中将を団長とする大日本帝国陸軍訪独団(ドイツ派遣航空視察団)とベルリンにて会見、「ブラフウィツチ元帥閣下」の鞘書の日本刀を贈られている。 1941年にバルバロッサ作戦で独ソ戦が始まると、戦略をめぐりヒトラーとブラウヒッチュは見解の相違が大きくなった。しかしブラウヒッチュはヒトラーの強気の作戦に異論を差し挟むことができず、何度も解任を申し出るようになった。12月にモスクワ攻略に失敗して退却を許さないヒトラーと対立すると、ついに解任された。後任の陸軍総司令官に自ら就任したヒトラーは彼を「役立たずの臆病者」と語った。 ブラウヒッチュはその後軍務に就くことはなく、ボヘミアの陸軍演習場にある狩場で隠棲した。1942年9月26日に旭日大綬章を受章。終戦後イギリス軍の捕虜となり、ニュルンベルク裁判では主要戦争犯罪人の裁判に証人として出廷した。ついで自らも主要戦犯として裁判が行われることになったが、開廷を待たずにハンブルクで病死した。
※この「陸軍総司令官」の解説は、「ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ」の解説の一部です。
「陸軍総司令官」を含む「ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ」の記事については、「ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ」の概要を参照ください。
陸軍総司令官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 00:34 UTC 版)
「ヴェルナー・フォン・フリッチュ」の記事における「陸軍総司令官」の解説
アドルフ・ヒトラーが首相に就任した後の1934年、ヒンデンブルク大統領により陸軍統帥部長官に任命される。これはヴェルナー・フォン・ブロンベルク新国防相の任命と共に、自分に近い保守的な伝統的プロイセン軍人を軍のトップに据えることで、ナチスの勢力伸張を押さえ込む狙いがあった。しかしこの狙いは成功しなかった。ヒトラーによる再軍備宣言に伴い、1935年6月にドイツ陸軍総司令官となり、同時に上級大将に昇進した。 1937年11月5日、ヒトラーはフリッチュらドイツ国防軍の三軍の将を前に侵略戦争の計画を打ち明ける。しかしフリッチュはブロンベルクと共に時期尚早として異議を唱え、ヒトラーの不興を買った(ホスバッハ議事録)。翌年3月、同性愛の疑いで捜査を受け、陸軍総司令官を更迭された。もとよりこの容疑は無実であり、軍法会議で無罪とされ名誉を回復したが、職務に戻されることはなかった。実態はヒトラーの戦争計画に抵抗したためにブロンベルクと共に失脚させられたといわれている。ヒトラーはこの後、国防軍最高司令部を設置してドイツ国防軍を直接掌握し、戦争への道を突き進む(ブロンベルク罷免事件)。
※この「陸軍総司令官」の解説は、「ヴェルナー・フォン・フリッチュ」の解説の一部です。
「陸軍総司令官」を含む「ヴェルナー・フォン・フリッチュ」の記事については、「ヴェルナー・フォン・フリッチュ」の概要を参照ください。
- 陸軍総司令官のページへのリンク