海軍航空本部
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海軍航空本部(かいぐんこうくうほんぶ、旧字体: 海󠄀軍航空󠄁本部)は、日本の海軍省の外局の一つ。通称は「航本」。航空機や航空兵器の研究・計画・審査を管掌し、航空要員の教育も担当した。長は本部長であり、原則として海軍中将が就任した。1927年(昭和2年)4月に設立、1945年(昭和20年)11月の海軍省廃止と共に解体された。
沿革
海軍航空本部の創設以前、帝国海軍は航空分野に関する中央総括部署を持たずに、海軍省内部部局や海軍艦政本部が分割して担当していた。しかし、刻々と進歩する航空分野に十分対応するためには統一的に管轄する担当部署が必要であるとの認識から航空関連部署を新設することになった。これが海軍航空本部であり、海軍航空本部令(1927年(昭和2年)4月4日勅令第61号)により海軍艦政本部から分離独立する形で設立された。以後、航空行政を総括する立場から航空戦力増強を推進、それにともない組織も順次強化されていった。終戦後の1945年(昭和20年)11月30日、海軍省廃止に伴い海軍航空本部も解散した。
組織
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海軍航空本部には各部があり、それぞれに部長・課長が置かれた。
- 総務部…開庁と同時に設置。航空本部を統括する。
- 教育部…開庁と同時に設置。教育を統括する。
- 技術部…開庁と同時に設置。技術開発を統括する。昭和17年11月1日、4部に発展解消。
- 補給部…昭和13年4月1日追加。資材調達・生産計画の立案。昭和17年11月1日、「第一部」に改称。
- 第一部…昭和17年11月1日補給部より改称。分掌は補給部と変わらず。
- 第二部…昭和17年11月1日技術部より改変。機体設計・開発を担当。昭和20年3月1日より発動機担当を兼務。
- 第三部…昭和17年11月1日技術部より改変。発動機設計・開発を担当。昭和20年3月1日より発動機部を第一部に譲り、射撃爆撃兵器担当に改変。
- 第四部…昭和17年11月1日技術部より改変。発着機および計測機器の設計・開発を担当。昭和20年3月1日より雷撃兵器担当に改変。
- 第五部…昭和20年3月1日海軍艦政本部第三部より権限委譲(部員は艦本三部と兼任)。艦本時代に引き続き無線機器担当。
- 第六部…昭和20年3月1日海軍艦政本部第五部より権限委譲(部員は艦本五部と兼任)。艦本時代に引き続き計測機器担当(第四部より委譲)。
- 第七部…昭和20年3月1日第四部より独立。発着機担当。
歴代航空本部長
- 山本英輔 中将:1927年(昭和2年)4月5日 -
- 安東昌喬 中将:1928年(昭和3年)12月10日 -
- 松山茂 少将:1931年(昭和6年)10月10日 -
- 加藤隆義 中将:1933年(昭和8年)11月15日 -
- 塩沢幸一 中将:1934年(昭和9年)1月17日 -
- 山本五十六 中将:1935年(昭和10年)12月2日 -
- 及川古志郎 中将:1936年(昭和11年)12月1日 -
- (兼)山本五十六 中将:1938年(昭和13年)4月25日 -
- 豊田貞次郎 中将:1938年(昭和13年)11月15日 -
- (兼)豊田貞次郎 中将:1940年(昭和15年)9月6日 -
- 井上成美 中将:1940年(昭和15年)10月1日 -
- (兼)沢本頼雄 中将:1941年(昭和16年)8月11日 -
- 片桐英吉 中将:1941年(昭和16年)9月10日 -
- 塚原二四三 中将:1942年(昭和17年)12月1日 -
- 戸塚道太郎 中将:1944年(昭和19年)9月15日 -
- (兼)井上成美 中将:1945年(昭和20年)5月1日 -
- 和田操 中将:1945年(昭和20年)5月15日 - 11月1日
関連項目
航空本部長
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1940年(昭和15年)10月1日に、海軍航空本部長に補される。戦後の井上は「自分は支那方面艦隊参謀長のとき、航空が最も重要だと思い、嶋田繁太郎司令長官に、航空関係への転勤希望を申し出ていたところ、これが容れられた」と希望通りの人事であったことを語っている。12月16日、丸田家に嫁いだ娘の靚子が長男の研一を産んだ。 1941年(昭和16年)1月の会議において井上は「第五次海軍軍備充実計画案」(⑤計画)を「明治・大正時代のようなアメリカの軍備に追従した杜撰な計画」と批判し「日本独自の特長ある、創意豊かな軍備を持つべき」と主張した。軍令部二部長・高木武雄少将が「では、どうすればいいか」と聞くと井上は「海軍の空軍化」と答えた。井上はその後一週間で海軍大臣・及川古志郎に戦艦無用論と海軍の空軍化を説いた「新軍備計画論」を提出した(具体案は「戦略」の項を参照)。 当初、井上はこのような内容の意見書を個人の意見として提出するつもりだった。ところが、井上が「新軍備計画論」を起草して航空本部総務部長の山縣正郷少将に見せた所、山縣が「ぜひ航空本部長の名で出して下さい」と言ったため、1月30日付で、海軍航空本部長から海軍大臣宛に正式に提出された。 井上は「本省の機務に関する書類は外局たる航本(航空本部)には回って来ないので、(時局の)真相はなかなか分らなかった」と回想する。しかし海軍次官が豊田貞次郎中将から沢本頼雄中将に交代した4月4日から約2週間、井上は海軍次官代理を兼務し、機務に触れることができた。この時に、駐米大使・野村吉三郎 が、悪化の一途を辿る日米関係の改善への必死の努力の結果、「日米了解案」を東京へ打電して来た。これに対し、日米開戦派である海軍省軍務局第二課主務局員の柴勝男中佐は、駐米海軍武官の横山一郎大佐に対し、「日米了解案について、野村大使を『慎重に補佐』すべし」という訓電を起案し、軍務局長の岡敬純少将に提示した。岡は、当初は野村の「日米了解案」に乗り気だったものの、結局は柴の意見に同意した。しかし、井上は「日米了解案」に非常に乗り気であったため、岡から上がってきた訓電案を良しとせず、海相・及川に直談判した。井上の記憶では、その日は土曜日(1941年(昭和16年)4月19日と思われる)で及川はもう帰宅していたので、井上は及川の私宅を訪れた。 井上は「(柴が起案し、岡が承認した訓電案を)自分が加筆修正して軍務局につき返しますからご承知下さい」と及川に言った。井上は、加筆修正して、岡を通じて柴に電文を返した。井上は、自分が修正した訓電がそのまま発電されたものと死ぬまで考えていたようである。しかし、柴が「それでは訓電の意味をなさないので、岡軍務局長の了解を得て発電を中止してしまった」と戦後に語っている。次官代理兼任というわずかな機会を捉えて、反米・開戦への空気にブレーキをかけようと必死だった井上は、新次官の沢本頼雄が上京して着任する前日に熱海に一泊すると聞き、及川に願い出て熱海に行き、兵学校の1期上である沢本に井上が次官代理をした2週間の出来事と自分の考えを説いた。 7月28日、日本が南部仏印進駐を行ったことで、在米英の日本資産凍結、日英通商条約廃棄、アメリカの対日石油禁輸などの強力な経済制裁がなされ、日米関係は一気に悪化した。南部仏印進駐が7月1日の閣議・翌2日の御前会議で決まった後の7月3日に省部臨時局部長会報(決定事項を知らせるための会議)で、沢本次官から「南部仏印進駐が閣議で決定した」と知らされた井上は「航空戦備は全く出来ていない。なぜ、事前に我々の意見を聞かないのか」と非を鳴らし、艦政本部長の豊田副武中将も井上に同調した。弁解する及川や沢本に対して、井上は「そんなことで大臣が務まりますか。南部仏印進駐に文句を言ったのは、手続き上の問題ではなく、事柄が重大すぎるからだ」と、まるで一兵卒に対するかのように怒鳴りつけた。ここまで来ても井上は諦めず、『海軍航空戦備の現状』というかなり長文の意見書を2週間で書き上げ、7月22日に、及川古志郎、沢本頼雄、永野修身、近藤信竹ら、海軍省・軍令部の首脳に説明し、航空戦備の各項目(飛行機、機銃、弾薬、魚雷など)について、充足率が著しく立ち遅れていることを示し、「戦争をしてはならない」と強く警告したが、彼らは聞く耳を持たなかった。
※この「航空本部長」の解説は、「井上成美」の解説の一部です。
「航空本部長」を含む「井上成美」の記事については、「井上成美」の概要を参照ください。
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