支那方面艦隊参謀長
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1939年(昭和14年)10月23日に支那方面艦隊兼第三艦隊参謀長に補され、上海に在泊する支那方面艦隊旗艦「出雲」へ赴任した。11月15日、井上は中将に進級し、同時に第三艦隊の解隊で兼任は解かれた。 艦隊司令部所属の軍楽隊に目をかけ、旗艦「出雲」内に、他の邪魔にならない練習場所を確保してやったり、国際都市の上海ゆえに一流の楽団の演奏会や音楽映画の上映があると、ポケットマネーで切符を買って全楽員を行かせたりと、物心双方で援助をした。琴やピアノの演奏に長けており、音楽の素養が深い井上は、軍楽隊が演奏する都度、気がついたことを楽員にアドバイスした。休日には日本人公園で野外演奏を行わせ、外国人を含む聴衆から拍手を受ける経験を積ませ、軍楽隊の士気を高めた。 ある会食で、飲めぬ酒を付き合ってほろ酔い加減となった井上は、兵学校で2クラス下(井上が一号生徒の時、三号生徒)の第五防備隊司令の板垣盛大佐に「貴様の前だけど、貴様の兄貴(板垣征四郎)、ありゃほんとうにいやな奴だな。東京にいたころ、俺は軍務局長相手は大臣で、対等の勝負にならなかったが、今度は同じ参謀長だ。南京へ行く機会があったら腹に据えかねていることをうんと言わせてもらうから、ついでの時そう伝えとけよ」「貴様も陸軍へ進めばよかったな。そうすりゃ、あの兄貴の引きで今ごろ少将かもしれんぞ。惜しかったんじゃないか、おい」と絡んだ。温厚な板垣は嫌な顔もしなかったが、末席で聞いていた、支那方面艦隊の最後任幕僚(暗号担当)の市来崎秀丸大尉は、井上が三国同盟を巡って板垣征四郎に不愉快な思いを多々させられたのは分かるが、何の責任もない弟にひどいことを言うものだ、と板垣盛に同情した。 日本軍が陸上から攻撃できない重慶で抗戦を続ける蔣介石政権を崩壊させるため、1940年(昭和15年)5月1日から9月5日までの約4か月間、「百一号作戦」(重慶爆撃)が実施された。陸海軍の航空兵力を結集して、四川省方面の中国空軍を撃滅し、重慶の蔣介石政権の政府機関、軍事基地、援蔣ルートを破壊するのが目的だった。従来から支那方面艦隊の隷下にあった第二連合航空隊、第三連合航空隊に、連合艦隊から増援された第一連合航空隊が加わり、漢口方面の飛行場には、陸攻・艦攻・艦爆・艦戦、約300機が集結した。井上は6月4日に漢口へ飛び、第一連合航空隊司令官の山口多聞少将、第二連合航空隊司令官の大西瀧治郎少将をはじめとする将兵を激励した。支那方面艦隊参謀長が最前線に出るのは異例で、百一号作戦に寄せる井上の期待が大きかったことを伺わせる。百一号作戦の開始当時は、重慶を爆撃可能な航続力を持つ九六式陸上攻撃機を、航続力の短い九六式艦上戦闘機が護衛できず、陸攻隊の損害が日を追って増えた。航続力が飛躍的に長く、強力な武装を備えた零式艦上戦闘機が漢口に送られ、15機が揃って8月19日から実戦に参加した。9月13日に、重慶上空で、零戦13機が27機の中国軍戦闘機隊を捕捉し、中国軍戦闘機を全滅させて零戦は全機が帰還する大戦果を挙げた。以後、重慶上空の制空権は日本側に移り、重慶爆撃の戦果は大いに上がった。 井上は支那方面艦隊水雷兼政策参謀・中山定義少佐のみを従えて、8月6日に九六式陸攻で上京し翌日、軍令部第一部長の宇垣纏少将ら海軍省・軍令部の十数名と会談し、支那方面艦隊の現状報告と中央への要望を行った。中山によれば、井上は「われわれは海軍航空隊による重慶を初めとする中国奥地戦略要点の攻撃に重点を置いており、その成否は、当面する支那事変解決の鍵と確信している。この作戦は日露戦争における日本海海戦に匹敵するとの認識のもとに全力投球している」と述べ、陸攻の増派をはじめとする具体的な増強案を提示した。中山がこれで井上の要望は終わったかと思った所、井上は一段と語調を強めて「中央には、対支作戦を推進し、その完遂を期すとしながら、その上に第三国(米・英)との開戦に備える動きがあると仄聞するが、万一事実とすれば以ての外である。今や我が国は支那事変だけでも大変な状況に陥っており、この泥沼から抜け出す見通しが立たない状況である。この上、第三国たる大国を相手に事を構えるが如きは論外であるというのが、現地部隊である支那方面艦隊の実感である」と述べた。中央側の出席者は沈黙するのみであった。宇垣の「御趣旨はよくわかりました」という短い挨拶でこの会議は終わったという。 8月18日に、軍令部から、支那方面艦隊司令部宛に「北部仏印作戦準備のため、第一連合航空隊を9月5日に内地に引き揚げさせることに手続き中」という無電連絡があった。支那方面艦隊先任参謀だった山本善雄中佐によると、「蔣介石政権を空襲で崩壊させるため、支那方面艦隊の航空兵力をさらに増強されたい」という意見具申と「支那事変をそのままに、第三国と事を構えるなど言語道断」という意見具申を、二つとも無視された井上の怒りは大変なものだったという。井上は、支那方面艦隊司令長官の嶋田繁太郎中将の了解を得て、長官名で、軍令部次長の近藤信竹中将宛に再度の意見具申電を発したが、軍令部は「先に井上支那方面艦隊参謀長が上京して意見具申をした時、軍令部は、御趣旨はわかったとは言ったが、その通りやるとは言っていない」と井上を馬鹿にするような応対をした。井上は「軍令部に駄目押しをしなかった自分の手抜かりであった、辞職する」と言い出し、支那方面艦隊参謀副長の中村俊久少将と山本が井上を説得し、ようやく収まった。 井上が支那方面艦隊参謀長の職を離れる直前の9月27日、日独伊三国同盟が締結され、北部仏印進駐と合せ、日本は対米英戦争への道を大きく踏み出した。1940年(昭和15年)6月16日にフランスがドイツに降伏したことでドイツ軍が優勢と見える状況について、中山定義が、井上に感想を求めた所、井上は即座に「ドイツ軍は必ず負けるよ」と答えた。
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