支那方面艦隊参謀長とは? わかりやすく解説

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支那方面艦隊参謀長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:42 UTC 版)

井上成美」の記事における「支那方面艦隊参謀長」の解説

1939年昭和14年10月23日支那方面艦隊第三艦隊参謀長補され上海に在泊する支那方面艦隊旗艦出雲」へ赴任した11月15日井上中将進級し同時に第三艦隊解隊兼任解かれた。 艦隊司令部所属軍楽隊に目をかけ、旗艦出雲」内に、他の邪魔にならない練習場所を確保してやったり、国際都市の上海ゆえに一流楽団演奏会音楽映画の上映があると、ポケットマネー切符買って楽員を行かせたりと、物心双方援助をした。琴やピアノ演奏長けており、音楽素養が深い井上は、軍楽隊演奏する都度、気がついたことを楽員アドバイスした休日には日本人公園野外演奏を行わせ、外国人を含む聴衆から拍手を受ける経験を積ませ、軍楽隊士気高めた。 ある会食で、飲めぬ酒を付き合ってほろ酔い加減となった井上は、兵学校で2クラス下(井上一号生徒の時、三号生徒)の第五防備隊司令板垣盛大佐に「貴様の前だけど、貴様兄貴板垣征四郎)、ありゃほんとうにいやな奴だな。東京にいたころ、俺は軍務局長相手大臣で、対等勝負にならなかったが、今度は同じ参謀長だ。南京へ行く機会あったら腹に据えかねていることをうんと言わせてもらうから、ついでの時そう伝えとけよ」「貴様陸軍へ進めばよかったな。そうすりゃ、あの兄貴の引きで今ごろ少将かもしれんぞ。惜しかったんじゃないか、おい」と絡んだ温厚な板垣嫌な顔もしなかったが、末席聞いていた、支那方面艦隊最後幕僚暗号担当)の市来秀丸大尉は、井上三国同盟巡って板垣征四郎不愉快な思い多々させられたのは分かるが、何の責任もない弟にひどいことを言うものだ、と板垣盛に同情した日本軍陸上から攻撃できない重慶抗戦続け蔣介石政権崩壊させるため、1940年昭和15年5月1日から9月5日までの約4か月間、「百一号作戦」(重慶爆撃)が実施された。陸海軍航空兵力を結集して四川省方面中国空軍撃滅し、重慶蔣介石政権政府機関、軍事基地援蔣ルート破壊するのが目的だった。従来から支那方面艦隊隷下にあった第二連合航空隊第三連合航空隊に、連合艦隊から増援された第一連合航空隊加わり漢口方面飛行場には、陸攻艦攻艦爆艦戦、約300機が集結した井上6月4日漢口飛び第一連合航空隊司令官山口多聞少将第二連合航空隊司令官大西瀧治郎少将はじめとする将兵激励した。支那方面艦隊参謀長が最前線に出るのは異例で、百一号作戦寄せ井上期待大きかったことを伺わせる。百一号作戦開始当時は、重慶爆撃可能な航続力を持つ九六式陸上攻撃機を、航続力の短い九六式艦上戦闘機護衛できず、陸攻隊の損害日を追って増えた航続力飛躍的に長く強力な武装備えた零式艦上戦闘機漢口送られ15機が揃って8月19日から実戦参加した9月13日に、重慶上空で、零戦13機が27機の中国軍戦闘機隊を捕捉し中国軍戦闘機全滅させて零戦全機帰還する大戦果を挙げた以後重慶上空制空権日本側に移り重慶爆撃戦果大い上がった井上支那方面艦隊水雷政策参謀中山定義少佐のみを従えて8月6日九六式陸攻上京し翌日軍令部第一部長宇垣纏少将海軍省・軍令部十数名と会談し支那方面艦隊現状報告中央への要望行った中山によれば井上は「われわれは海軍航空隊による重慶初めとする中国奥地戦略要点攻撃重点置いており、その成否は、当面する支那事変解決の鍵と確信している。この作戦日露戦争における日本海海戦匹敵するとの認識のもとに全力投球している」と述べ陸攻増派はじめとする具体的な増強案を提示した中山がこれで井上要望終わったかと思った所、井上一段と語調強めて中央には、対支作戦推進し、その完遂期すしながらその上に第三国米・英)との開戦備え動きがあると仄聞するが、万一事実とすれば以ての外である。今や我が国支那事変だけでも大変な状況に陥っており、この泥沼から抜け出す見通し立たない状況である。この上第三国たる大国相手事を構える如き論外であるというのが、現地部隊である支那方面艦隊実感である」と述べた中央側の出席者沈黙するのみであった宇垣の「御趣旨はよくわかりました」という短い挨拶でこの会議終わったという。 8月18日に、軍令部から、支那方面艦隊司令部宛に「北部仏印作戦準備のため、第一連合航空隊9月5日内地引き揚げさせることに手続き中」という無電連絡があった。支那方面艦隊先任参謀だった山本善雄中佐によると、「蔣介石政権空襲崩壊させるため、支那方面艦隊航空兵力をさらに増強されたい」という意見具申と「支那事変そのままに、第三国事を構えるなど言語道断」という意見具申を、二つとも無視され井上怒り大変なのだったという。井上は、支那方面艦隊司令長官嶋田繁太郎中将了解得て長官名で、軍令部次長近藤信竹中将宛に再度意見具申電を発したが、軍令部は「先に井上支那方面艦隊参謀長が上京して意見具申をした時、軍令部は、御趣旨わかったとは言ったが、その通りやるとは言っていない」と井上馬鹿にするような応対をした。井上は「軍令部駄目押しをしなかった自分の手抜かりであった辞職すると言い出し支那方面艦隊参謀副長中村俊久少将山本井上説得し、ようやく収まった井上が支那方面艦隊参謀長の職を離れる直前9月27日日独伊三国同盟締結され北部仏印進駐合せ日本対米戦争への道を大きく踏み出した1940年昭和15年6月16日フランスドイツ降伏したことでドイツ軍優勢と見える状況について、中山定義が、井上感想求めた所、井上即座にドイツ軍は必ず負けるよ」と答えた

※この「支那方面艦隊参謀長」の解説は、「井上成美」の解説の一部です。
「支那方面艦隊参謀長」を含む「井上成美」の記事については、「井上成美」の概要を参照ください。

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