支那事変以降とは? わかりやすく解説

支那事変以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 05:24 UTC 版)

板垣征四郎」の記事における「支那事変以降」の解説

支那事変日中戦争)では第5師団師団長として出征する。平型関と忻口鎮(きんこうちん)の戦闘では、険し地形生かした林彪らの八路軍阻まれ多く死傷者を出す。1937年11月9日第20師団救援により、山西省太原市占領した張作霖爆殺事件満州事変支那事変等の重大事件相次いで発生すると、中国現地事情精通した支那通の軍人求められるようになっていった。また、地方軍閥がなお割拠する中国戦場では、欧州近代的軍事技術はあまり役に立たないので、『豪傑型』が多い支那軍人陸軍内部でのステータス相対的に高まっていった。 こうした中、第一次近衛内閣改造1938年6月3日陸相対満事務局総裁就任。これには林内閣組閣工作失敗した十河信二近衛への進言があった。日支和平積極的な満州組の総帥である板垣牽制すべく、陸軍次官梅津美治郎陸士15期板垣1期先輩)は統制派総帥だった東条17期)を自分後任次官にさせた。一方陸軍省での勤務経験が無い板垣も自ら事務堪能東条次官求めた経緯があり、奇しくも両者要求一致した格好である。のちに戦線の拡大不拡大かで東条多田駿参謀次長争い板垣多田と意を通じるも、「喧嘩両成敗」として両者更迭した。平沼内閣総辞職に伴い陸相退任する際、自らの後任推したのは多田であったが、それは叶わず畑俊六就任することとなった陸相在任中は宇垣一成外相による日華和平交渉に際しては、「蔣介石下野」を講和条件とする強硬論をぶち上げ結果として交渉不成立原因招いた当時蔵相であった池田成彬和平交渉賛成であったはずの板垣行動に対して、「次官以下のところに常な強硬論者があって、それが板垣君を引きずっていたように自分は思う」と語っている。陸軍下克上の中で、板垣宇垣池田期待していたほどの役割果たせなかった。

※この「支那事変以降」の解説は、「板垣征四郎」の解説の一部です。
「支那事変以降」を含む「板垣征四郎」の記事については、「板垣征四郎」の概要を参照ください。

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