歴史的なマンホール蓋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 08:23 UTC 版)
「マンホールの蓋」の記事における「歴史的なマンホール蓋」の解説
日本で最初の下水道は、1881年(明治14年)の横浜居留地で、神奈川県御用掛(技師)の三田善太郎がこの下水道の設計を行ない、その時に「マンホール」を「人孔」と翻訳したのではないかと言われている。この時設置された蓋は鋳鉄製格子状だったとも木製格子状だったとも言われており、詳細については不明である。 間違いなく鋳鉄製の蓋が使用されたのは、1885年(明治18年)の神田下水(東京)の「鋳鉄製格子形」が嚆矢とされている。鋳鉄製格子形の物は実際に2000年代まで東京都千代田区神田岩本町に残存していたのが林丈二、栗原岳により確認されており、寸法や格子の穴の数まで神田下水当時の図面に描かれた蓋と同一であった。また、北海道函館市入舟町には1897年(明治30年)頃の物と推察される鋳鉄製格子形の蓋が2018年時点で幾つか現存しており、国内現役最古のマンホール蓋の可能性がある。 現在の蓋の原形は、明治から大正にかけて、東京帝国大学で教鞭をとると同時に、内務省の技師として全国の上下水道を指導していた中島鋭治が、1904年(明治37年)から1907年(明治40年)にかけて東京市の下水道を設計するときに西欧のマンホールを参考に考案した。この当時の紋様が東京市型と呼ばれ、中島門下生が全国に散るとともに広まってゆき、その後、1958年(昭和33年)にマンホール蓋のJIS規格(JIS A 5506)が制定された際に、この紋様が採用された。一方、名古屋市の創設下水道(1907年=明治40年起工)の専任技師だった茂庭忠次郎は、その後内務省土木局に入り、全国の上下水道技術を指導した折に名古屋市型を推し進めたため、名古屋市型紋様も全国的に広まっていった。 コンクリート製マンホール蓋は、1932年(昭和7年)頃、東京の隅田川にかかる小台橋近くの工場で森勝吉が製造したのが嚆矢とされ、ダイヤ型のガス抜き穴が開いた物であった。「森式」、あるいは「小台型」と呼ばれ、特に金属が不足した支那事変以降、戦時中にかけて多用されたと言われている。現在でも、このダイヤ穴の物は稀に見かける。 他に上水道、電話、電力、ガスといった事業体でもマンホール蓋は存在する。 「東京市型」。水道の父と呼ばれる中島鋭治が考案したとされる蓋。 茂庭忠次郎考案とされる「名古屋市型」。 函館市入舟町の函館どっく前電停付近に2枚ある鋳鉄製格子蓋。1899年(明治32年)以前に設置された物で、2018年現在残存しており、日本での現役最古のマンホール蓋の可能性がある。 森勝吉が考案したとされる「森式」コンクリート蓋。中央の紋章は旧東京府章。
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