横浜居留地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:28 UTC 版)
諸外国と締結した修好条約では開港場は神奈川となっていたが、東海道筋の宿場町である神奈川宿では日本人との紛争が多発すると懸念した幕府は、勝手に街道筋から離れた辺鄙な横浜村に開港場を変更してしまった。オールコックら英米外交団は条約の規定と違うと強硬に抗議したが、幕府は横浜も神奈川の一部であると押し通した。 横浜港は、1859年7月4日に正式開港し、まず山下町を中心とする山下居留地が4年で完成した。横浜居留地は幕府が勝手に造成したため当初は日本風の造りであったが、1866年の大火“豚屋火事”の後、洋風に改められた。この復興工事は幕府から明治政府が引き継いだ。居留地は掘割で仕切られていて、入り口にある橋のたもとには関所が設置されていたので、関内居留地とも呼ばれる。その後、外国人人口がさらに増加したので、1867年には南側に山手居留地も増設された。山下居留地は主に外国商社が立ち並ぶ商業区域となり、山手居留地は外国人住宅地となった。現在観光コースになっている山手本通り沿いにある数棟の西洋館は、旧イギリス7番館(1922年)を除けば、すべて観光資源として昭和時代以降に建築されたものか他所から移築されたものである。 横浜居留地にあった外国商社としては、ジャーディン・マセソン商会(怡和洋行)、デント商会 (Dent & Co.)、サッスーン商会 (Sassoon & Co.)、ウォルシュ・ホール商会、コーンズ商会、アダムソン商会(現・ドッドウェルジャパン株式会社)などがあったほか、横浜初の英字新聞『Japan Herald』の印刷発行所(1867年倒産)などもあった。 1859年7月時点で50名近くの外国人が居住したと言われ、イギリス人が最も多く、そのほとんどが新天地日本との貿易で一攫千金を狙う商人だった。1863年には西洋人だけで約170人がおり、半数近くがイギリス人だった。開港当時の様子を描写した著作のあるアーネスト・サトウは、オールコックと思われるある外交官が居留地の外国人社会を「ヨーロッパの掃きだめ」と称したと記し、商人と公的に派遣された役人との仲は悪かった。横浜の外国人はイギリス次いでアメリカ、ドイツが多く、ドイツ系の商社にはアーレンス商会、イリス商会、シモン・エヴァース商会、カール・ローデ商社などがあり、ドイツから機械や軍事品、化学製品等を日本へ輸入していた。 当時、外国人の行動範囲は、東は多摩川、北は八王子、西は酒匂川であった。1862年夏、川崎大師見物のため乗馬していた横浜居留地の英人男女4人が生麦村(現:横浜市鶴見区)で薩摩藩の大名行列に切りつけられる生麦事件が起こり、幕府を震撼させた。居留地周辺は、幕末には攘夷浪人も出没して外国人殺傷事件がしばしば起こる物騒な地域であった。居留民保護のため1875年までは英仏軍隊も駐留していた(英仏横浜駐屯軍)。 1872年には、イギリス人のエドモンド・モレルの指導により、新橋-横浜間に鉄道が開通した。当時の横浜停車場(後に桜木町駅となる)は居留地を出てすぐの所であり、新橋停車場(後に汐留貨物駅となる)は築地居留地の外縁にあった。つまり、日本最初の一般営業鉄道は、横浜居留地と築地居留地を繋ぐものだったのである。また下岡蓮杖が走らせた乗合馬車も同区間にあった。 横浜居留地は、1877年に日本側の行政権が完全に回復した。山下の居留地完成から14年後、山手の居留地増設から僅か10年後のことである。なお、返還自体は他都市と同様に1899年7月17日である。
※この「横浜居留地」の解説は、「外国人居留地」の解説の一部です。
「横浜居留地」を含む「外国人居留地」の記事については、「外国人居留地」の概要を参照ください。
横浜居留地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 06:48 UTC 版)
「リチャード・ブリジェンス」の記事における「横浜居留地」の解説
横浜居留地最初期外国商人の一人であるアメリカ人骨董競売人のラファエル・ショイヤー (Raphael Schoyer) の妻アンと親戚であったことから、横浜に呼び寄せられたらしく、元治元年(1864年)に来日し、横浜外国人居留地の土木技術事務所のルーシィ社 (Lucy & Co.) に勤めた。 慶応2年(1866年)の豚屋火事の後、ブリジェンスによって木骨石貼りで多数の建物が再建されていったと考えられる。イギリス公使のハリー・パークスとの知遇を得て、1867年には横浜英国仮公使館と横浜英国領事館の設計を始めたが、その後、イギリス政府から派遣された建設技師によって設計し直された。 1870年前後には、ジョージ・ウィットフィールド、P.S.ドーソン、コリン・アレクサンダー・マクヴェイン(ヴァルカン・ファンドリー)の外国人技師、清水喜助と高島右衛門の日本人請負大工らと一緒に仕事をしていた。 耐火構法として日本にもとももとあった木骨石貼り (stone casing) だけではなく、もっと簡便ななまこ壁を用いることもあり、なまこ壁外装の英国仮公使館建物は高島嘉右衛門 が、木骨石貼りの領事館建物は清水喜助(二代目)が建設を請負い、ブリジェンスが施工監理を行った。その後、喜助とともに横浜から築地に進出し、築地ホテル館を設計施工監理した。喜助はこの経験を基に、後に第一国立銀行や為替バンク三井組といった擬洋風建物を建築している。 1872年、日本初の鉄道駅舎として開業した横浜駅(現在の桜木町駅)と新橋駅(現在の汐留)を設計した。なお、「旧新橋停車場跡」は国の史跡に指定され、2003年(平成15年)ブリジェンスが設計した開業当時の駅舎が復元された。 明治24年(1891年)に72歳で没、横浜外国人墓地に埋葬された。 横浜英国仮公使館 築地ホテル館 横浜駅 新橋駅(2003年復元)
※この「横浜居留地」の解説は、「リチャード・ブリジェンス」の解説の一部です。
「横浜居留地」を含む「リチャード・ブリジェンス」の記事については、「リチャード・ブリジェンス」の概要を参照ください。
横浜居留地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 09:29 UTC 版)
1860年、神奈川奉行の管轄下に「居留地見廻役」が置かれた。しかし言語等で意思の疎通を欠いていたため、1864年に幕府は英・米・仏・蘭の四カ国と協定を結び、居留地の自治組織である「居留地会」が警察を設置することになった。しかし、警察を運営する資金調達に難航したことから、居留地会は神奈川奉行に警察権を返上した。神奈川奉行は「居留地見廻役」を再設置し、居留地在住の外国人を長官に任命した。 明治維新後もしばらくはこの体制が続いた。1871年時点での居留地見廻役の職員は、外国人20人(うち清国人が7人)、日本人41人の陣容であった。1871年11月に居留地見廻役は廃止され、神奈川県警察部に専門の部署が設けられた。
※この「横浜居留地」の解説は、「居留地警察」の解説の一部です。
「横浜居留地」を含む「居留地警察」の記事については、「居留地警察」の概要を参照ください。
- 横浜居留地のページへのリンク