横浜大洋時代とは? わかりやすく解説

横浜大洋時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 14:17 UTC 版)

中山裕章」の記事における「横浜大洋時代」の解説

1985年ドラフト会議1985年11月20日)では清原桑田とともに目玉選手として注目されていた一方ドラフト会議前に社会人野球三菱重工三原への就職内定していた。そして、ドラフト当日横浜大洋ホエールズから単独1位指名を受け、指名後には「早く一軍昇格して阪神タイガース中西(清起)さん(高校先輩)と投げ合いたい」と述べた。ルーキーイヤーの推定年俸は430万円契約金は5,200万円で、入団時には阪神中西目標掲げていた。背番号中山本人の希望により、中西と同じ19決まった入団1年目となる1986年春季キャンプでは当時エース投手遠藤一彦同室になり、その際遠藤から直接プロ野球選手として心構え教わっていた。同年近藤貞雄監督の下で本格派として期待され一軍18試合登板して0勝3敗・防御率5.11成績に終わるも3セーブ挙げた当時は既に近藤監督から「投手として一級品素材」と称賛されていたが、まだ下半身をうまく使った投球ができていなかったため、鈴木隆投手コーチから徹底した走り込みを行わされていた。同年5月6日同い年相川英明とともに出場選手登録されると、その2日後(5月8日)に対読売ジャイアンツ巨人5回戦後楽園球場)にて若菜嘉晴バッテリー組んで一軍初登板・初先発果たし、。マウンド巨人先発江川卓投げ合う形となり、1・2回を無失点抑えたが、5回裏から疲れ見えたところを巨人打線痛打され、相川交代するまでに5回3分の2投げ5被安打・2奪三振・3与四球・5失点自責点4)で敗戦投手となった同年7月には平塚球場開かれた二軍イースタン・リーグイ・リーグ)の試合登板した際、ジュース差し入れ受けたことをきっかけに、その差し入れ主である大洋ファン女性当時淑徳短期大学英語学科在学/後に婚約する1991年末の事件により婚約破棄)と交際開始したプロ入り2年目となる1987年推定年俸590万円前年比160万円増)で臨み古葉竹識監督の下で33試合登板して5勝12敗・防御率5.17・セーブなしと大きく負け越したが、著し成長遂げて投手陣の軸に近づく飛躍1年となった同年5月9日本拠地横浜スタジアム開かれた巨人戦先発登板し、堀場秀孝バッテリー組んで6回2/3投げた疲れ出た7回表に連打浴びて4失点するなどして5失点喫したが、チームは8対6で勝利し中山自身プロ勝利を飾った。また同年5月21日にはヤクルトスワローズ戦(横浜スタジアム)で堀場バッテリー組んで6被安打・5奪三振・1与四球・1失点プロ入り初の完投勝利シーズン2勝目)を記録し同年6月27日には対巨人戦後楽園球場)で若菜嘉晴バッテリー組み先発し巨人打線を計4被安打(6回2死まで無安打)に抑えプロ入り完封勝利シーズン3勝目)を記録した10歳代(未成年)の投手巨人戦完封勝利記録したのは当時20年ぶりのことで、当時エース遠藤同数勝利数を稼ぐことを目標掲げていた。一方で古葉監督からは「先発の際には良い球と悪い球の落差がありすぎる」と指摘されていたほか、同年11月静岡県伊東市内で開かれた秋季キャンプ中には自分先発ローテーション入りして一人前になった」と自負していたところ、コーチたちから様々な注意助言受けたことに対し反抗的な態度取った。そのため、寺岡孝ヘッドコーチから「やる気がないなら東京へ帰れ!」と鉄拳制裁受けたが、それが意識改革促すきっかけとなったプロ入り3年目1988年シーズン推定年俸1,180万円前年比590万円増)で臨み古葉監督提案抑え転向抑え転向した当初不安定な投球続いたが、古葉は「中山心中する」と宣言した。やがて中山抑え慣れ戸惑いがなくなると抑えとして好成績残せようになった同年新たにスライダー会得したため、投球余裕を持つことができるようになり、リーグ最多70試合登板して10勝6敗24セーブ34セーブポイント防御率2.28の成績挙げ中日ドラゴンズ郭源治ロッテオリオンズ牛島和彦並んでプロ野球代表するストッパー」とうたわれた同年救援投手ながら規定投球回到達する活躍見せたほか、オールスターゲームでは第2戦・ナゴヤ球場7月25日)、第3戦・東京ドーム7月26日)と2戦連続勝利投手となったまた、同年11月5日開幕日米野球大会読売新聞社主催)では全日本メンバー選出されたほか、11月19日行われたセ・リーグ第10回東西対抗戦平和台野球場)では東軍選出された。同年オフ防御率リーグ3位など好成績残したことを高く評価され12月2日推定年俸2,520万円前年比200%アップ、1,340万円増)で契約更改した。 右投げ速球派投手として活躍していた中山だったが、大洋にとっては「即戦力」とみなされ古葉監督時代リリーフ酷使されたために肩・腰を痛めてしまった。プロ入り4年目となる1989年シーズン45試合登板して1勝1017セーブ防御率4.10と大乱調に終わり同年オフには推定年俸2,200万円前年比320万円減)で契約更改した。 故障から「これで終わりと言われたが、高校の大先輩須藤豊監督就任したプロ入り5年目1990年シーズン先発ローテーション投手として復活27試合登板して8勝12敗・防御率3.92の成績残した同年4月7日開幕戦対中ドラゴンズ戦・ナゴヤ球場)では開幕投手務めたが、それから3週間わたって未勝利終わっていた。しかし4月28日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)で市川和正バッテリー組み完投して阪神打線をわずか4安打抑え同年勝利を3年ぶりの完封勝利飾った同年オールスターゲームにも通算2度目出場果たしオフ契約更改では12月25日推定年俸2,630万円前年比430万円増、前回交渉より130万円増)で契約更改した。この日は逮捕のちょう1年前で、同日には入団後まもなく知り合った女性当時21歳)と婚約したプロ入り6年目となった1991年シーズン2年連続開幕投手務めた同年春先こそ好調だったが、6月8日試合札幌市円山球場中日戦)で6点リード守れ降板それ以降成績下降し夏場先発で6連敗するなどエースとして期待応えきれず、8月には二軍落ちした。同年27試合登板先発20試合)して8勝10敗・防御率4.20の成績で、規定投球回数到達選手20人中ではリーグ最下位成績だった。 プロ入りから同年シーズン終了までの6年間で通算325344セーブ成績挙げ大洋球団エース投手として活躍しており、シーズン終了後同年12月6日には翌1992年度契約について推定年俸2,650万円現状維持)で契約更改していた。また同年10月には横浜市緑区若草台(現:横浜市青葉区若草台)に約1億1,800万円2階建ての新築住宅を建て、郷里高知市内に暮らしていた両親・姉も含めて5人で新生活送っていた。

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