横浜大洋時代
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1985年のドラフト会議(1985年11月20日)では清原・桑田とともに目玉選手として注目されていた一方、ドラフト会議前には社会人野球・三菱重工三原への就職が内定していた。そして、ドラフト当日に横浜大洋ホエールズから単独1位指名を受け、指名後には「早く一軍に昇格して、阪神タイガースの中西(清起)さん(高校の先輩)と投げ合いたい」と述べた。ルーキーイヤーの推定年俸は430万円・契約金は5,200万円で、入団時には阪神・中西を目標に掲げていた。背番号は中山本人の希望により、中西と同じ19に決まった。 入団1年目となる1986年の春季キャンプでは当時のエース投手・遠藤一彦と同室になり、その際に遠藤から直接プロ野球選手としての心構えを教わっていた。同年は近藤貞雄監督の下で本格派として期待され、一軍で18試合に登板して0勝3敗・防御率5.11の成績に終わるも3セーブを挙げた。当時は既に近藤監督から「投手として一級品の素材」と称賛されていたが、まだ下半身をうまく使った投球ができていなかったため、鈴木隆投手コーチから徹底した走り込みを行わされていた。同年5月6日に同い年の相川英明とともに出場選手登録されると、その2日後(5月8日)に対読売ジャイアンツ(巨人)5回戦(後楽園球場)にて若菜嘉晴とバッテリーを組んで一軍初登板・初先発を果たし、。初マウンドで巨人先発・江川卓と投げ合う形となり、1・2回を無失点に抑えたが、5回裏から疲れが見えたところを巨人打線に痛打され、相川に交代するまでに5回3分の2を投げ5被安打・2奪三振・3与四球・5失点(自責点4)で敗戦投手となった。同年7月には平塚球場で開かれた二軍イースタン・リーグ(イ・リーグ)の試合に登板した際、ジュースの差し入れを受けたことをきっかけに、その差し入れ主である大洋ファンの女性(当時・淑徳短期大学英語学科在学/後に婚約するも1991年末の事件により婚約破棄)と交際を開始した。 プロ入り2年目となる1987年は推定年俸590万円(前年比160万円増)で臨み、古葉竹識監督の下で33試合に登板して5勝12敗・防御率5.17・セーブなしと大きく負け越したが、著しい成長を遂げて投手陣の軸に近づく飛躍の1年となった。 同年5月9日に本拠地・横浜スタジアムで開かれた巨人戦で先発登板し、堀場秀孝とバッテリーを組んで6回2/3を投げた。疲れが出た7回表に連打を浴びて4失点するなどして5失点を喫したが、チームは8対6で勝利し、中山自身もプロ初勝利を飾った。また同年5月21日にはヤクルトスワローズ戦(横浜スタジアム)で堀場とバッテリーを組んで6被安打・5奪三振・1与四球・1失点でプロ入り初の完投勝利(シーズン2勝目)を記録し、同年6月27日には対巨人戦(後楽園球場)で若菜嘉晴とバッテリーを組み先発し、巨人打線を計4被安打(6回2死まで無安打)に抑え、プロ入り初完封勝利(シーズン3勝目)を記録した。10歳代(未成年)の投手が巨人戦で完封勝利を記録したのは当時20年ぶりのことで、当時はエース・遠藤と同数の勝利数を稼ぐことを目標に掲げていた。一方で古葉監督からは「先発の際には良い球と悪い球の落差がありすぎる」と指摘されていたほか、同年11月に静岡県伊東市内で開かれた秋季キャンプ中には「自分は先発ローテーション入りして一人前になった」と自負していたところ、コーチたちから様々な注意・助言を受けたことに対し反抗的な態度を取った。そのため、寺岡孝ヘッドコーチから「やる気がないなら東京へ帰れ!」と鉄拳制裁を受けたが、それが意識改革を促すきっかけとなった。 プロ入り3年目の1988年シーズンは推定年俸1,180万円(前年比590万円増)で臨み、古葉監督の提案で抑えに転向。抑えに転向した当初は不安定な投球が続いたが、古葉は「中山と心中する」と宣言した。やがて中山も抑えに慣れ、戸惑いがなくなると抑えとして好成績を残せるようになった。同年は新たにスライダーを会得したため、投球に余裕を持つことができるようになり、リーグ最多の70試合に登板して10勝6敗24セーブ34セーブポイント・防御率2.28の成績を挙げ、中日ドラゴンズ・郭源治やロッテオリオンズ・牛島和彦に並んで「プロ野球を代表するストッパー」とうたわれた。同年は救援投手ながら規定投球回に到達する活躍を見せたほか、オールスターゲームでは第2戦・ナゴヤ球場(7月25日)、第3戦・東京ドーム(7月26日)と2戦連続で勝利投手となった。また、同年11月5日開幕の日米野球大会(読売新聞社主催)では全日本メンバーに選出されたほか、11月19日に行われたセ・リーグの第10回東西対抗戦(平和台野球場)では東軍に選出された。同年オフは防御率リーグ3位など好成績を残したことを高く評価され、12月2日に推定年俸2,520万円(前年比200%アップ、1,340万円増)で契約更改した。 右投げの速球派投手として活躍していた中山だったが、大洋にとっては「即戦力」とみなされ、古葉監督時代にリリーフで酷使されたために肩・腰を痛めてしまった。プロ入り4年目となる1989年シーズンは45試合に登板して1勝10敗17セーブ・防御率4.10と大乱調に終わり、同年オフには推定年俸2,200万円(前年比320万円減)で契約更改した。 故障から「これで終わり」と言われたが、高校の大先輩・須藤豊が監督に就任したプロ入り5年目の1990年シーズンは先発ローテーション投手として復活。27試合に登板して8勝12敗・防御率3.92の成績を残した。同年4月7日の開幕戦(対中日ドラゴンズ戦・ナゴヤ球場)では開幕投手を務めたが、それから3週間にわたっては未勝利に終わっていた。しかし4月28日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)で市川和正とバッテリーを組み、完投して阪神打線をわずか4安打に抑え、同年初勝利を3年ぶりの完封勝利で飾った。同年はオールスターゲームにも通算2度目の出場を果たし、オフの契約更改では12月25日に推定年俸2,630万円(前年比430万円増、前回交渉より130万円増)で契約更改した。この日は逮捕のちょうど1年前で、同日には入団後まもなく知り合った女性(当時21歳)と婚約した。 プロ入り6年目となった1991年シーズンも2年連続で開幕投手を務めた。同年は春先こそ好調だったが、6月8日の試合(札幌市円山球場・中日戦)で6点リードを守れず降板。それ以降は成績が下降し、夏場は先発で6連敗するなどエースとしての期待に応えきれず、8月には二軍落ちした。同年は27試合に登板(先発20試合)して8勝10敗・防御率4.20の成績で、規定投球回数到達選手20人中ではリーグ最下位の成績だった。 プロ入りから同年シーズン終了までの6年間で通算32勝53敗44セーブの成績を挙げ、大洋球団のエース級投手として活躍しており、シーズン終了後の同年12月6日には翌1992年度の契約について推定年俸2,650万円(現状維持)で契約更改していた。また同年10月には横浜市緑区若草台(現:横浜市青葉区若草台)に約1億1,800万円で2階建ての新築住宅を建て、郷里・高知市内に暮らしていた両親・姉も含めて5人で新生活を送っていた。
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