1991年シーズン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/28 01:12 UTC 版)
「ベネトン・B191」の記事における「1991年シーズン」の解説
ベネトンはトップチームの中で唯一ピレリタイヤを選択したが、アドバンテージにはつながらなかった。マクラーレン、ウィリアムズといった上位チームに勝負するには至らず、ネルソン・ピケが第5戦カナダグランプリで幸運な1勝を得るにとどまった。 第12戦イタリアグランプリから、ロベルト・モレノに代わってミハエル・シューマッハがデビューし、いきなりネルソン・ピケの予選順位を上回るなど、活躍を見せた。
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1991年シーズン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 03:58 UTC 版)
「マクラーレン・MP4/6」の記事における「1991年シーズン」の解説
アイルトン・セナはアメリカGP、ブラジルGP、サンマリノGP、モナコGPの4レースで開幕4連勝を記録した。しかし、シーズン序盤のマクラーレンの連勝はライバルだったウィリアムズ・FW14の信頼性不足によるもので、モナコGPを境にFW14とルノーV10エンジンのパッケージが優れた性能を発揮した。シーズンを通してマクラーレンは表彰台の常連であったが、セナはホンダにエンジンの改良を要求するとともにチームに対してもシャシーの大幅な改良を要求した。 この要求に対して、ホンダはV12エンジンの継続的なアップデートで応えた。オートレイも様々な改良を加え、特にサイドポッドとウイングを中心とした変更が加えられた。また、ハンガリーGPではシーズン中にも関わらず、16kgもの軽量化を実現したシャシーをセナのレースカーとして投入した。 マクラーレンはウィリアムズに猛追され、一時はコンストラクターズのトップの座を奪われたが、ハンガリーGPとベルギーGPでのマシントラブル、ポルトガルGPのピットストップのミスでウィリアムズが勝利できなかったことが影響し、マクラーレンは4年連続のコンストラクターズチャンピオンとなった。セナはナイジェル・マンセルの挑戦を退け、3度目のドライバーズタイトルを獲得した。 年No.ドライバー12345678910111213141516ポイントランキングUSABRASMRMONCANMEXFRAGBRGERHUNBELITAPORESPJPNAUS1991 1 アイルトン・セナ 1 1 1 1 Ret 3 3 4 7 1 1 2 2 5 2 1 139 1位 2 ゲルハルト・ベルガー Ret 3 2 Ret Ret Ret Ret 2 4 4 2 4 Ret Ret 1 3 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ
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1991年シーズン
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「ジョーダン・191」の記事における「1991年シーズン」の解説
ドライバーはベテランのアンドレア・デ・チェザリスと若手のベルトラン・ガショーを起用。プレシーズンテストでは「スポンサー獲得のために、1990年までの旧レギュレーション仕様で走っているのでは?」と噂されるほどの好タイムを記録した。 開幕戦アメリカGPでは、トラブルからマシンが炎上し殆ど走れなかったデ・チェザリスが予備予選落ちを喫したが、その後は新規参入組の壁となる予備予選を難なく通過し、予選でもテールエンダーにはならず中団グループの成績をコンスタントに残した。 エンジンがシリーズIIIからIVにアップデートされた第5戦カナダGPでデ・チェザリスが4位、ガショーが5位でゴールし、チームの初ポイントを2台ダブル入賞で記録した(ガショーにとってはF1初入賞となった)。続く第6戦メキシコGPでも、ゴール直前にガス欠に見舞われたマシンを押してゴールしたデ・チェザリスが、2戦連続となる4位を記録。第7戦フランスGPでデ・チェザリス、第8戦イギリスGPでガショーがそれぞれ6位に入るなど新規参戦チームとは思えない頻度で入賞を繰り返した。 前半戦の成績により後半戦からは予備予選を免除され、第9戦ドイツGPではデ・チェザリス5位・ガショー6位と、2度目のダブル入賞を果たした。第10戦ハンガリーGPではガショーがチーム及び自身初のファステストラップをマークした。 順調なシーズンを過ごしていたが、ハンガリーGP終了後に突如ガショーが傷害容疑で逮捕され拘留された。これはシーズン開幕前、イギリスでタクシー運転手に対し、同国で使用禁止の痴漢撃退用スプレーを噴霧したことが理由だった(詳しくはベルトラン・ガショー#催涙スプレー事件の項を参照)。出走が不可能となったガショーの代役候補は3人おり、F1シートを失っていたデレック・ワーウィックとステファン・ヨハンソン、そしてF1未経験であったがメルセデスの強力なバックアップを受けていた新人ミハエル・シューマッハの3人であった。この中でシューマッハがシルバーストンでテスト走行の機会が与えられその走りを見たジョーダンチームのマネージャー、イアン・フィリップスから電話で「ドイツの若いのが最初からF1をスライドコントロールさせて走ってるぞ!」という報告を聞いたエディ・ジョーダンが「今すぐそのドイツ・ボーイと契約しろ!」とのやり取りを経て次戦のベルギーGPではミハエル・シューマッハがジョーダンのシートを得た。 ベルギーGPは予選・決勝を通じてチームのドライバーが注目を浴びることとなり、予選ではシューマッハが、デビュー戦ながらマクラーレン、ウィリアムズ、フェラーリ、ベネトンの後方予選7位を獲得。決勝スタートでも5位にまで順位を上げたが、1コーナーのラ・ソース通過後にクラッチトラブルでリタイアした。またデ・チェザリスは、決勝においてじわじわと順位を上げ、終盤には2位まで浮上。残り3周でエンジントラブルによりストップしたが(13位完走扱い)、一時はギア・ボックストラブルを抱えるトップのアイルトン・セナの背後にまで迫った。 シューマッハはベルギーGPの1戦のみでジョーダンを離れ、ベネトンに移籍した。第12戦イタリアGP、13戦ポルトガルGPではシューマッハにベネトンのシートを奪われたロベルト・モレノがジョーダンを駆ったが、それぞれリタイヤと10位に終わった。またデ・チェザリスもイタリアGPでは終盤まで6位を走行しながらピケに抜かれ7位、ポルトガルGPも8位とポイントは獲得出来なかった。第14戦スペインGP以降の3戦は、モレノに代わって同年の国際F3000で速さを見せチャンピオン争いをしていた新人アレッサンドロ・ザナルディを加入させたが、デ・チェザリス共々入賞は無かった。 ジョーダンは最終的に新規チームながらコンストラクターズ・ランキング5位でシーズンを終えた。1992年に向けては新たにヤマハエンジンを搭載することが決定し、ヤマハV12エンジンを191に搭載したマシンを黒澤琢弥が鈴鹿サーキットでドライブしテストが行われた。
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