第1次中日時代とは? わかりやすく解説

第1次中日時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:28 UTC 版)

レオ・ゴメス」の記事における「第1次中日時代」の解説

1996年12月18日金銭トレード星野仙一監督率い中日入団移籍金は1,000万円で、来日時契約契約金2,000万円年俸1億2,000万円1年契約だった。中日同年打率.302・29本塁打安定した力を発揮したコールズを足の故障などを理由解雇しており、彼に代わる新外国人として4番任せられる三塁手探しゴメス獲得した来日1年目1997年から、勝負強い打撃で主に4番打者として活躍した同年チームは、本拠地ナゴヤ球場からグラウンドが広いナゴヤドーム移転した直後で、その適応苦しみセ・リーグ最下位低迷したが、ゴメスはそれを苦にしない長距離打者として135試合出場して打率.315・31本塁打81打点・OPS.966と活躍した本塁打数は、本塁打王タイトル獲得したドゥエイン・ホージーヤクルトスワローズ38本)、松井秀喜読売ジャイアンツ巨人〉:37本)、金本知憲広島東洋カープ33本)、清原和博巨人32本)に次ぐリーグ5位で、チーム最多だった。しかし、戸部良也はゴメス本塁打の出にくいナゴヤドームを「モンスターだ」と恐れていた旨を述べている。 1998年体重増が裏目に出て膝を故障したため2度にわたり戦線離脱したほか、チーム横浜ベイスターズ優勝争いをしていた9月に2本塁打、4打点成績落としたが、シーズンでは26本塁打記録。この本数は、同年セ・リーグ外国人選手としては最多で、リーグ全体も本塁打王を獲得した松井34本)や、広島江藤智28本)、そしてチームメイトである山崎武司27本)に次ぐ4位であった1999年前年故障踏まえ減量し春季キャンプ臨んだほか、打撃フォーム改造にも取り組んだ。それが功を奏しオープン戦から打率4割超、6本塁打好成績残し開幕後4番打者として中日打線牽引開幕から12試合連続本塁打打てずにいたが、4月18日東京ドーム開催された対巨人3回戦では、2回表に先発投手岡島秀樹からシーズン本塁打となるソロ本塁打3回表にも岡島から2打席連続となる3点本塁打放った。これにより、チームは同回終了時点で5対0と大量リード果たしたが、その裏守備で、二死満塁場面で清原和博三塁ゴロトンネルしてしまう。これがきっかけで、チームは同回に6点失い先発投手鶴田泰ノックアウトされてしまった。しかし5回表、「鶴田悪いことをした」「(自身失策を)なんとかしたい」と第3打席に立ち、岡田展和から3打席連続となる再逆転2点本塁打打ったその後、8回表には二死満塁で5打席目を迎え、ここで満塁本塁打打てばNPB史上初かつ、MLBでも達成した者のいない「サイクル本塁打」(サイクルホームラン)が達成されるところであったが、空振り三振倒れ記録達成はならなかった。それでも、この試合来日後始めて3打席連続本塁打記録したその後4月下旬から5月にかけて調子落とした時期もあったものの復調し6月27日横浜戦(ナゴヤドーム)では自己最速となる65試合目で20号本塁打到達した最終的に133試合出場し打率.297・36本塁打、OPS.959、そしてリーグ3位109打点記録36本塁打は、本塁打王獲得したヤクルトロベルト・ペタジーニ44本)、松井42本)、横浜ロバート・ローズ37本)に次ぎ広島緒方孝市並んでリーグ4位だった。打点当時球団外国人選手の最高成績2006年タイロン・ウッズ144打点記録更新)で、同年中日リーグ優勝貢献した。特に優勝争いをしていた巨人戦強く打率.359・13本塁打記録した同年日本シリーズ終了後10月29日年俸2億円(前年比5,000万円増)の1年契約締結2000年序盤不振だったものの、5月復調し月間MVP獲得8月寝違えにより、頸椎捻挫したものの、打率.289、25本塁打79打点本塁打打点はチームトップ)の成績残した球団翌年契約する方針だったものの、10月5日アメリカに住む長男教育問題や、膝・背中故障などを理由退団することが発表された。 2001年ピッツバーグ・パイレーツキャンプ参加しMLB復帰目指していたが、開幕直前解雇された。マイナー行き拒否しFAとなっていた。FAとなった後は故郷プエルトリコトレーニングをしていた。

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第1次中日時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:05 UTC 版)

酒井忠晴」の記事における「第1次中日時代」の解説

ドラフトでは投手指名だったがプロ入り後すぐに内野手転向1991年シーズンから控えとして一軍定着した1992年シーズンには、シーズン中盤に種田仁欠場したこともあり、遊撃手として37試合先発出場1995年シーズンオフ前田幸長平沼定晴樋口一紀との3対3交換トレード仁村徹山本保司とともに千葉ロッテマリーンズ移籍

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