第1次中日時代
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1996年12月18日、金銭トレードで星野仙一監督の率いる中日に入団。移籍金は1,000万円で、来日時の契約は契約金2,000万円・年俸1億2,000万円の1年契約だった。中日は同年、打率.302・29本塁打と安定した力を発揮したコールズを足の故障などを理由に解雇しており、彼に代わる新外国人として4番を任せられる三塁手を探し、ゴメスを獲得した。 来日1年目の1997年から、勝負強い打撃で主に4番打者として活躍した。同年のチームは、本拠地をナゴヤ球場からグラウンドが広いナゴヤドームに移転した直後で、その適応に苦しみセ・リーグ最下位に低迷したが、ゴメスはそれを苦にしない長距離打者として、135試合に出場して打率.315・31本塁打・81打点・OPS.966と活躍した。本塁打数は、本塁打王のタイトルを獲得したドゥエイン・ホージー(ヤクルトスワローズ:38本)、松井秀喜(読売ジャイアンツ〈巨人〉:37本)、金本知憲(広島東洋カープ:33本)、清原和博(巨人:32本)に次ぐリーグ5位で、チーム最多だった。しかし、戸部良也はゴメスが本塁打の出にくいナゴヤドームを「モンスターだ」と恐れていた旨を述べている。 1998年は体重増が裏目に出て膝を故障したため2度にわたり戦線離脱したほか、チームが横浜ベイスターズと優勝争いをしていた9月に2本塁打、4打点と成績を落としたが、シーズンでは26本塁打を記録。この本数は、同年のセ・リーグの外国人選手としては最多で、リーグ全体でも本塁打王を獲得した松井(34本)や、広島の江藤智(28本)、そしてチームメイトである山崎武司(27本)に次ぐ4位であった。 1999年は前年の故障を踏まえ、減量して春季キャンプに臨んだほか、打撃フォーム改造にも取り組んだ。それが功を奏し、オープン戦から打率4割超、6本塁打と好成績を残し、開幕後も4番打者として中日打線を牽引。開幕から12試合連続で本塁打を打てずにいたが、4月18日に東京ドームで開催された対巨人3回戦では、2回表に先発投手の岡島秀樹からシーズン初本塁打となるソロ本塁打、3回表にも岡島から2打席連続となる3点本塁打を放った。これにより、チームは同回終了時点で5対0と大量リードを果たしたが、その裏の守備で、二死満塁の場面で清原和博の三塁ゴロをトンネルしてしまう。これがきっかけで、チームは同回に6点を失い、先発投手の鶴田泰がノックアウトされてしまった。しかし5回表、「鶴田に悪いことをした」「(自身の失策を)なんとかしたい」と第3打席に立ち、岡田展和から3打席連続となる再逆転2点本塁打を打った。その後、8回表には二死満塁で5打席目を迎え、ここで満塁本塁打を打てばNPB史上初かつ、MLBでも達成した者のいない「サイクル本塁打」(サイクルホームラン)が達成されるところであったが、空振り三振に倒れ、記録達成はならなかった。それでも、この試合で来日後始めて3打席連続本塁打を記録した。その後、4月下旬から5月にかけて調子を落とした時期もあったものの復調し、6月27日の横浜戦(ナゴヤドーム)では自己最速となる65試合目で20号本塁打に到達した。 最終的には133試合に出場し、打率.297・36本塁打、OPS.959、そしてリーグ3位の109打点を記録。36本塁打は、本塁打王を獲得したヤクルトのロベルト・ペタジーニ(44本)、松井(42本)、横浜のロバート・ローズ(37本)に次ぎ、広島の緒方孝市と並んでリーグ4位だった。打点は当時の球団外国人選手の最高成績(2006年にタイロン・ウッズが144打点で記録更新)で、同年の中日のリーグ優勝に貢献した。特に優勝争いをしていた巨人戦に強く、打率.359・13本塁打を記録した。同年の日本シリーズ終了後の10月29日、年俸2億円(前年比5,000万円増)の1年契約を締結。 2000年は序盤は不振だったものの、5月に復調し月間MVPを獲得。8月に寝違えにより、頸椎を捻挫したものの、打率.289、25本塁打、79打点(本塁打、打点はチームトップ)の成績を残した。球団は翌年も契約する方針だったものの、10月5日、アメリカに住む長男の教育問題や、膝・背中の故障などを理由に退団することが発表された。 2001年はピッツバーグ・パイレーツのキャンプに参加し、MLB復帰を目指していたが、開幕直前に解雇された。マイナー行きを拒否し、FAとなっていた。FAとなった後は故郷・プエルトリコでトレーニングをしていた。
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第1次中日時代
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ドラフトでは投手指名だったがプロ入り後すぐに内野手へ転向。 1991年シーズンから控えとして一軍に定着した。 1992年シーズンには、シーズン中盤に種田仁が欠場したこともあり、遊撃手として37試合に先発出場。 1995年シーズンオフに前田幸長、平沼定晴、樋口一紀との3対3の交換トレードで仁村徹、山本保司とともに千葉ロッテマリーンズへ移籍。
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