第1次中日監督時代
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1986年10月29日、同年途中で休養した山内一弘の後任として中日の監督に就任。1年契約、契約金5000万円、年俸4000万円、背番号は「77」(川上哲治が巨人監督としてこの背番号でV9を達成したことに肖ったもの)。NPB史上初の戦後生まれの監督となった。球団からの監督要請を受ける時、「召集令状がきた」と感じたといい、「笑ってください」と注文をつけてきたカメラマンに対し、「これから戦場へ行くのだ。笑えるか」と真剣に怒ったというエピソードが存在する。総合コーチに木俣達彦、投手コーチに池田英俊、二軍監督兼寮長に岡田英津也を招聘した。就任後は谷沢健一に水面下で引退を勧告し、谷沢は引退。ロッテとの4対1トレードで上川誠二、桑田茂、牛島和彦、平沼定晴を放出し、落合博満を獲得するなど、大胆な補強を行い、ドラフト会議でも1986年に近藤真一、1987年に立浪和義といった即戦力に成り得る高校3年生を他球団との競合の末に1位で獲得し、以降は今中慎二、山崎武司、上原晃、音重鎮、大豊泰昭など主力級が3年間で入団する。投手では川畑泰博、江本晃一、宮下昌己、打者では仁村徹、彦野利勝、小松崎善久、中村武志といった実績のない若手を次々と起用して成功した。 山本昌広をアメリカ合衆国への留学で才能を開花させ、先発投手の郭源治を抑え、遊撃手の宇野勝を二塁手、捕手の中尾孝義を外野手にコンバートするなど、チームカラーを一新する。特に正捕手だった中村への叱り方は厳しいもので、中村本人は第二次星野政権時代に「(第一次政権では)鉄拳制裁を受けなかった日にちを数えた方が早かった」と語っている。山本は「第一次政権で抜擢された若手で鉄拳を浴びていないのはおそらく立浪和義ぐらいではないか」と記している。選手を怒鳴り、プレッシャーをかけ、「俺のプレッシャーに負けるような奴が、ここぞの時に踏ん張れるか、そんな奴は要らねぇ」と述べている。 1987年5月2日の広島戦では正田耕三のタッチプレーを巡り両軍乱闘し広島のコーチ伊勢孝夫と揉み合い回し蹴りして、伊勢と共に退場処分となり、現役通して初の退場となった。監督1年目の退場は宇野光雄、金田正一、ジョー・ルーツに次いで4人目。 1987年5月13日、広報の早川実が運転する愛車のメルセデス・ベンツ・ミディアムクラスの後部座席に乗車中、名古屋市中区に当時あった室内練習場に入ろうとした際に2トントラックが20~30キロの速さで追突。病院の診断で全治10日の頸椎挫傷の怪我を負う。 1988年4月19日の阪神戦(岡山球場)で宇野勝のタッチプレーの判定に抗議し、二塁塁審の友寄正人に暴言を吐き、退場処分、2年連続で両リーグで最初の退場処分を受けている。上記2試合の監督代行は木俣。 開幕戦は1987年4月10日の巨人戦(後楽園球場)で開幕投手に杉本正を起用したが、近藤貞雄はこれに対して「開幕投手の指名は“今年のエースはお前だ。シーズンを通して頼りにしてるぞ”という監督の意思表示だ。とすれば小松しかいない。それが杉本だった。杉本もいい投手だが、シーズン通して頼れる投手ではない」と述べている。杉本は吉村禎章、駒田徳広に本塁打を打たれ、西本聖に完封勝利をくらい、0対6で敗戦。2戦も先発の鈴木孝政が打たれて連敗。監督としての初勝利は巨人戦の3戦目(勝ち投手は小松)。この年は仁村徹は規定打席に達しレギュラーになった。6月11日、熊本・藤崎台県営野球場での対巨人戦で宮下昌己がウォーレン・クロマティの背中に死球を与え、両軍入り乱れての大乱闘に発展(宮下昌己によると星野監督からぶつけるように指示が出ていたと述べている)。その際、巨人監督の王貞治に対し、胸ぐらをつかみ胸を小突き、拳を突き出し挑発ともとれるポーズをとり、喧嘩を売ったと批判された。王に「我々が主役になってはダメだ」と諭されたが、「やられたらやり返すのが当たり前じゃないですか」と言い返した。後年その際のことに触れ、拳を突き出した件については「拳で殴ることはないでしょう?」という抗議の意味であったと釈明している。オフに日本ハムとの2対2トレードで大島康徳、曽田康二を放出し、大宮龍男、田中富生、西武とのトレードで平野謙を放出し、小野和幸、巨人を自由契約となった仁村薫を獲得した。 1988年は小野、小松の先発2本柱が活躍したが、完投数は12球団最少の18だった。抑えの郭、鹿島忠、川畑の中継ぎ陣、米村明、山本昌広、上原晃の若手投手陣、彦野、立浪、ゲーリー・レーシッチ、落合、宇野、仁村、川又米利、中村の強竜打線が好調で、1点差試合が34勝15敗を記録した。郭がMVP、小野が最多勝、立浪が新人王を獲得した。西武ライオンズとの日本シリーズは1戦目、5戦目先発登板した小野、山本、杉本と先発投手が打ち込まれ、打線も4番落合(打点0)、5番宇野が低迷し、西武に1勝4敗で敗れた。西武の監督森祇晶は「星野監督は選手たちに相当にらみを利かせていた。勢いで公式戦を乗り切ったが、私は負ける相手ではない。中日は前年まで西武にいた(第1戦先発の)小野が清原に特大の本塁打を打たれた。(第1戦に)小松が来たらイヤだなと思っていた」と述べている。中日生え抜きで優勝した監督は2018年時点で星野だけである。オフに巨人との1対2トレードで中尾孝義を放出し、西本聖、加茂川重治を獲得。監督1年目の開幕戦で西本のピッチングを見ていつか獲得しようと決意し、2年後にトレードを実現させた。 1991年は監督として初めて開幕戦に勝利し、前半戦は首位に立つも、後半戦は失速し、優勝した広島に3ゲーム差の2位で終わった。新人の森田幸一は抑えで活躍し、球団として初めて2年連続で新人王を輩出するなど、翌年以降のチーム采配にも期待が持たれたが、9月24日に「健康上の理由」により、退任を表明した。健康不安による退任は表向きの理由であり、実際には妻の白血病発症が大きく関係していた。
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第1次中日監督時代
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1987年からCBC野球解説者となるが、1991年オフに星野仙一の監督辞任を受け、後任として監督に就任する。 1992年はシーズン後半に上位チームに善戦するものの、主力選手の故障等も響いて60勝70敗の最下位となる。なお、この年のセントラル・リーグは全球団が60勝台であった。 1993年は優勝したヤクルトに前半大差をつけられるも、後半一時は逆転して首位に立ったが、最終的に2位となる。特に9月5日の対阪神タイガース21回戦ではトーマス・オマリーのソロ本塁打1点だけに抑えていた先発の山本昌広を7回で降板させたが(点数も7-1)、そこから後続のピッチャーが8回1点、9回に8点を取られて大逆転負けを喫した。高木は試合後「私が悪かった」と選手に頭を下げ、シーズン終了後には「中日がペナントをとれなかったのは、この試合にある」とまでいわれた。また、落合博満は後に自著でこの試合を振り返って「勝負事では驕りは禁物である。誤った采配を招くからである」と、中4日でこの試合でも102球投げていた山本を代えたのはまだしも、当時リリーフエースだった郭源治を出すタイミングを誤ったことに苦言を呈し、「何点勝っていても、手を緩めずに完璧に叩きのめしたことを、相手の記憶に植えつけなければいけない」と述べている。なお同年オフには2年前(1991年オフ)に不祥事を起こして横浜大洋ホエールズ(→当時・横浜ベイスターズ)を解雇され、2年間資格停止処分を受けていた中山裕章を打撃投手として採用し、翌シーズン途中から選手として現役復帰させた。落合がFAで巨人へ移籍にした。 1994年は首位巨人に前半戦で大差をつけられるが、後半戦は巨人のもたつきもあり、猛追してとうとう同率首位に立ち、両チーム共この年の130試合目の最終戦で勝った方がリーグ優勝という日本プロ野球史上に残る10.8決戦を迎えたが、結果的に敗戦で終える。シーズン終盤には監督交代の話が挙がっていたが、後半戦の躍進が評価され、翌年も続投となった。 1995年は投手陣の崩壊・故障者の続出により、チームは低迷を続けていた。そのため、成績不振の責任を取り、シーズン途中で監督を辞任。監督としての最後の試合となった6月2日の対阪神戦では、友寄正人審判への暴行により退場処分を受けた。同シーズンは、当初は徳武定祐が監督代行を務めたが、その徳武もシーズン途中で解任され、その後はシーズン終了まで島野育夫が監督代々行を務めた。当時、たまに打つも、三振が多かった山崎武司を起用し続け、山崎は高木の監督退任後の1996年には、本塁打王になっている。
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