第1次内戦とは? わかりやすく解説

第1次内戦(1989年~1996年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:51 UTC 版)

リベリア内戦」の記事における「第1次内戦(1989年1996年)」の解説

そんな不満からついに1999年頃からセクー・コネ (Sekou Conneh) 率いる反テーラー武装勢力リベリア民主和解連合(LURD) (Liberians United for Reconciliation and Democracy) やトマス・ニメリー (Thomas Nimely) 率いリベリア民主運動(MODEL) (Movement for Democracy in Liberia) の武装勢力蜂起し勢力拡大2003年には首都モンロビア進攻した。この時点ですでにテーラー権力弱体化しており、6月17日には政府停戦合意するに至ったその後アメリカなどによる圧力や、西アフリカ諸国経済共同体による平和維持軍800人ほどのアメリカ陸軍到着などから、テーラーナイジェリア逃亡した。この結果政府反政府勢力間で和平合意結ばれ停戦至ったその後国際連合リベリア・ミッション(UNMIL)が設立され和平のために、停戦合意検証武装勢力武装解除および社会復帰支援人権擁護推進治安状況回復支援和平合意推進支援行なっている。 反政府軍テーラー攻勢中心となったのは、リベリア民主和解連合(LURD)である。LURDは実質的にULIMO-Kを再結成たような組織であり、戦闘員はULIMOと同様クラン族やマンディンゴ族によって構成されていた。また、LURDはギニアシエラレオネアメリカ支援受けており、ギニアシエラレオネ国境地域拠点としていた。 LURDは継続的なゲリラ活動によって政府側の支配下見た地域次々と攻撃しまた、2003年3月にはコートジボワール支援受けたリベリア民主運動(MODEL)も戦線参加同年にはリベリア全土テーラー政権支配地域3分の1まで縮小させることに成功していた。 テーラー政権時のリベリア軍 テーラーは軍を解体して司令官としてジョン・テルヌエ(John Tarnue)を任命し新たに6,000人(陸軍5,160人、海軍600人、空軍240人)の兵士によって軍を再編した第二次内戦においてリベリア正規軍役割大きくなく、テーラー政府軍主戦となったのは元NPFL戦闘員少年兵といった民兵であった。 更に正規軍民兵だけでなく、以下の不正規部隊テーラー政権要人警護対反乱作戦参加していたとみられる特殊作戦部隊(Special Operation Division,SOD) - リベリア国家警察特殊部隊。 特別保機関(Special Security Service,SSS) - リベリア国家警察要人警護部隊対テロ部隊Anti Terrorist Unit,ATU) - テーラー直属精鋭部隊。主に外国人兵士構成されており、ブルキナファソ人、ガンビア人、シエラレオネ人のRUF戦闘員によって構成されていた。 また、これらの部隊はほかの部隊同様たびたび略奪行為民間人殺害を行うことから(特にATUはテーラー・ジュニアの拷問などに加担しDemon Force(悪魔部隊)”と呼ばれ恐れられていた。)戦後隊員たちの中に特別法廷にて逮捕され処罰を受ける者が多かった

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