第1次作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 05:48 UTC 版)
軍隊は11月2日キャンピオンに移動し、そこでエミュー50頭を目撃した。エミューは銃の射程外であったため、地元の入植者等が伏兵のもとに集めようと試みたが、エミューは細かい群れに分かれ、狙われにくいように逃走した。それでも、最初の機関銃による一斉射撃は射程の関係で効果がなかったものの、2回目の射撃では「多数」のエミューを殺すことができた。同日のうちにまた小規模な群れに遭遇し、「恐らく十数頭」が殺された。 次の特筆すべき出来事は11月4日に起こった。メレディス少佐は地域の堰近くに伏兵を配置していたが、その地点に1000頭以上のエミューが向かっていることが確認されたのである。今回、砲兵隊員は発砲する前にエミューが至近距離に近づくまで待機した。しかし、わずか12頭を殺した後に銃が作動不良で動かなくなり、それ以上殺せないうちに残りは離散した。その日に更なるエミューは発見されなかった。 エミューが「かなりおとなしい」 と報じられる南方への移動を選択してから数日間、努力の甲斐なく限定的な戦果しか得られなかった。ある段階では機関銃のうち一丁をトラックに設置する試みまで行ったが、その手段は無効だとわかった。トラックはエミューに接近することができず、また運転が荒く砲兵隊員が射撃できなかったためである。最初の交戦から6日後の11月8日までに2500発の弾薬が発射された。エミューの犠牲頭数は明らかでない。50頭程度とする記録もあるが、他の記録は200から500頭の範囲で揺れている。500頭は入植者により報告された頭数である。メレディス少佐による公式報告によれば、部下に死傷者は出なかった。 鳥類学者ドミニック・サーベンティ―(英語版)はこの掃討作戦を総括して以下のように批評した。 「 エミューの密集した集団に至近距離で撃ち込もうという機関銃兵の夢想は間もなく崩れ去った。エミューの司令部は明らかにゲリラ戦術を発令しており、厄介なエミュー軍は間もなく軍備の使用を不経済化する無数の小規模部隊に分裂した。従って、意気消沈した野戦軍は約1ヶ月後に戦闘地域から撤退した。 」 11月8日、オーストラリア代議院の代議士が作戦について協議を行った。地元メディアでは出来事を否定的に報道し、中には「僅か数頭のみ」のエミューが死んだとする主張もあったため、これを受けて11月8日、ピアース大臣は軍隊と銃を撤収させた。 撤退後、メレディス少佐はエミューをズールー人に譬え、ひどく負傷してすら発揮されるエミューの驚くべき機動力についてこう評した。 「 もしエミューの弾丸輸送能力を持つ一個師団があれば、世界中のどの軍隊にも立ち向かうだろう。エミューは機関銃に戦車の不死身さをもって立ち向かうことができる。まるでダムダム弾ですら止められなかったズールー人のようだ。 」
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