モンゴルが勃興する中での宋金戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 12:17 UTC 版)
「宋金戦争」の記事における「モンゴルが勃興する中での宋金戦争」の解説
詳細は「モンゴル・南宋戦争」を参照 12世紀半ばに、遊牧民の連合体が統一されモンゴル帝国が始まった。彼らと他の草原の遊牧民は、時折、北西から金を襲撃していた。金は懲罰的な遠征を避け、宋に対すると同様に宥和的な態度をとっていた。表向き金の属国であったモンゴルは、1210年に金の属国の地位を脱し、1211年に金を攻撃した。この出来事を受けて、宋朝は弱体化した金への貢納を打ち切ることを検討したが、やはり最終的には金との対立を避けることを選択した。そのため1214年に西夏が対金同盟を提案した際にはこれを拒否し、1215年に金が貢納額引き下げを提案した際には貢納を打ち切らずこれを快諾した。一方、1214年には、金は中都の戦いから開封に退き、開封は金の新しい首都となった。モンゴルの拡大に伴い金は領土を失ったため、1217年に縮小した領土を補うために宋を攻撃した。宋が定期的に金を襲撃したことが、戦争の公式な正当性の根拠であった。また、モンゴル人が北方の支配に成功した場合、宋を征服することで金は逃げ場を確保することができるという事が動機とされる。一方で宋側では、金軍の南下に備えて宣戦を唱える強硬論が高まったが、宰相の史弥遠は金と戦うことを躊躇し、宣戦布告を2カ月遅らせた。しかし宋の将軍たちは宰相とは独立していたため、史弥遠は軍事的な失敗の責任を回避することができた。この遅れによって金は中央と西の前線から国境を越えて進軍した。それでも金の軍事的成功は限られており、金は隣国の西夏からの度重なる襲撃に直面した。1217年、宋の将軍である孟宗政と扈再興は金を破り、金軍の棗陽・随州攻略を阻止した。 1217年末に行われた金の第2次侵攻作戦は、第1次作戦よりもわずかに良い結果となった。東部では、金軍は淮河流域ではほとんど前進しなかったが、西部では1217年末に西河と大散関を攻略した。金は1218年と1219年に再び泗州を攻略しようとしたが失敗した。1218年初めには宋の反攻で泗州が占領され、1219年には金の都市である鄧州と唐州が趙方の指揮する宋軍によって2度にわたって略奪された。1221年には西方では、四川における宋軍の指揮を、それまで解任されていた安丙に委ねた。彼は西部戦線の防衛に成功したが、現地での反乱のためにそれ以上前進することができなかった。金は宋から賠償金を分捕ろうとしたが、結局それを宋が支払う事にはならなかった。3つの作戦の最後、1221年の初めに、金は宋の領土の奥深くにある蘄州の都市を占領した。しかし扈再興と李全が率いる宋軍が金軍を破り、金軍は撤退した。1224年、両者は休戦に合意し、宋は金への毎年の貢納を停止した。金と宋との間の外交闘争も停止された。
※この「モンゴルが勃興する中での宋金戦争」の解説は、「宋金戦争」の解説の一部です。
「モンゴルが勃興する中での宋金戦争」を含む「宋金戦争」の記事については、「宋金戦争」の概要を参照ください。
- モンゴルが勃興する中での宋金戦争のページへのリンク