モンゴルとの戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 06:40 UTC 版)
カラーウーンの即位直後にダマスカスの知事シャムスッディーン・ソンコル(「赤毛の」ソンコル)がカラーウーンに反乱を起こす。ソンコルの反乱には廃位されたサラーミシュ、一部のバイバルス配下も加わっていた。カラーウーンはソンコルの反乱を鎮圧したものの、ソンコルはモンゴル系国家のイルハン朝のアバカ・ハンに援助を求め、マムルーク朝内部の分裂を好機と考えたアバカは、1280年10月にシリアに侵入し、アレッポを破壊した。 1281年5月、カラーウーンは領地の付与を条件にソンコルと講和する。カラーウーンはソンコルと講和した後にモンゴル軍のシリアへの進軍を知り、ソンコルの党派を加えたマムルーク軍団、ハマーのアイユーブ朝の王族などを加えて迎撃に向かった。アバカ率いる本隊、アバカの弟モンケ・ティムールの部隊、キリキア・アルメニア軍で構成されるモンゴル軍は進軍を続け、1281年10月31日に両軍はハマー・ホムス(ヒムス)間の平原で対峙した(ホムスの戦い(英語版))。マムルーク軍は戦闘で勝利を収めるが、多くの将校と輜重を失った。戦勝後の追撃中、ソンコルがモンゴルと内通の約束を交わした書簡がカラーウーンの元に届けられたが、カラーウーンは書簡を水に入れて字を消し、書簡が誰の目にも触れないようにした。 勝利したカラーウーンはダマスカスを経てエジプトに帰還し、カイロに凱旋した。 アバカの死後にイルハン朝のハンに即位したアフマド・テグデルはイスラームに改宗したモンゴル人であり、マムルーク朝に同盟を申し出た。カラーウーンは戸惑いながらも、同盟の要請を受諾した。1284年にアフマド・テグデルは廃位され、非イスラム教徒であるアルグンがイルハン朝のハンとなったが、アルグン在位中にマムルーク朝の軍がイルハン朝の領土に侵入した回数は1度だけだった。 ホムスの戦いの後、カラーウーンは中東の十字軍国家との戦争に専念する。
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