モンゴルによる支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 11:02 UTC 版)
詳細は「イルハン朝」、「ジャライル朝」、および「ティムール朝」を参照 13世紀に、モンゴルのチンギス・ハーンがモンゴル帝国を起こし、西シベリア、中央アジア、中国に版図を広げた。フレグが率いるモンゴル軍はイスラム諸国に侵攻し(フレグの西征)、1258年にイラクに侵攻してバグダードのアッバース朝を征服した(バグダードの戦い)。これによりイスラム帝国は滅亡した。当時、百万都市と呼ばれていたバグダードだが、このときのモンゴル人による虐殺により20万~50万人ものイラク人が殺されたという。また、バイト・アル・ヒクマ(知恵の館)と呼ばれた古代ギリシャなどの貴重な文献を所蔵していた当時の世界一の図書館は焼かれ、所蔵されていた図書の多くはティグリス川へ捨てられたという。このときの情景を当時の歴史家は、「ティグリス川は異なる色で二度染まった。一度目は人々の血で赤く、二度目は流れたインクで黒く」と表現している。 フレグはイラン高原に留まり、1260年に西アジアを支配する自立政権、イルハン朝を建設した。イルハン朝の首都は現イランのタブリーズに置かれ、イラン高原を中心に、アム川からイラク、アナトリア東部までを支配した。モンゴル研究者には、フレグ一門のウルス(国家)という意味で、イルハン朝をフレグ・ウルスとよぶ者も多い。 当初、イルハン朝は東ローマ帝国と友好関係にあり、親キリスト教であった(en:Franco-Mongol alliance)。アイン・ジャールートの戦いで敗れてシリアを喪失し、マムルーク朝と対立していたが、1262年になると、フレグとジョチ・ウルスのベルケとが、アゼルバイジャンの支配権をめぐる対立からベルケ・フレグ戦争(英語版)を始めた。 しかし、1295年、当時活躍していたイスラム商人や、モンゴル部族にも増えつつあったイスラム教徒の支援を受けて、ガザンが第7代目ハンに即位し王朝の諸制度をイスラム化したため、イルハン朝はイスラム王朝に変わっていった。 1335年、イルハン朝の中心地であるアゼルバイジャンのタブリーズ地方(現イラン)を巡って、イルハン朝の有力者の間で争いがおこった。ジャライル部のシャイフ・ハサン(大ハサン)とスルドス部の同名のシャイフ・ハサン(小ハサン)とが争い、1338年、スルドス部の小ハサンが勝利した。大ハサンはバグダードを中心とするメソポタミア平原に撤退し、1340年、イラクを中心に自立してジャライル朝をおこした。この後、大ハサンの子のシャイフ・ウヴァイスはタブリーズを奪還して、ジャライル朝の版図を旧イルハン朝の西半まで広げた。 同じ時期に、中央アジアにおいては、モンゴル系遊牧勢力を統合したティムールが、ティムール朝(ティムール帝国)と呼ばれる支配を確立した。ティムールは周辺の諸勢力を次々と支配下におさめ、1390年頃にはイラク・イラン地域へと進出してきた。ジャライル朝は、黒羊朝と呼ばれるトルコ系イスラム王朝と結んでティムールに対抗したが、敗退し、バグダードを奪われた。この際、バグダードは再び激しい虐殺や略奪の対象となった。ティムール帝国は、西はアナトリア半島、東は東トルキスタン、インドまで広い版図を実現したが、ティムールの没後は急速に動揺し、分裂していった。
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