モンゴルのカシミール征服とデリー・スルターン朝との抗争とは? わかりやすく解説

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モンゴルのカシミール征服とデリー・スルターン朝との抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/01 03:49 UTC 版)

モンゴルのインド侵攻」の記事における「モンゴルのカシミール征服とデリー・スルターン朝との抗争」の解説

数年後1235年別のモンゴル部隊カシミール地方侵入し数年ダルガチ行政長官)を駐在させてモンゴルの支配下置いた同時にカシミール仏教徒の長であったオトチ(Otochi)とその兄弟ナモNamo)はオゴデイ宮廷赴いたまた、別のモンゴル帝国将軍パクチャク(Pakchak)はペシャーワル侵攻しジャラールッディーンの下を去った後もモンゴルにとって脅威となっていたペシャーワル各部族打ち破った。主にハルジー族の敗れた人々ムルターンへと逃れデリー・スルターン朝軍隊登用された。1241年冬、モンゴル軍インダス渓谷へと侵入しラホール包囲した1241年12月30日モンゲトゥ(Munggetu)指揮下のモンゴル軍ラホール虐殺行ったが、デリー・スルターン朝からは撤退した。 オゴデイ・カーンが亡くなったためであったカシミール1254年から1255年にかけて反乱おこした1251年即位したモンケ・カーンは将軍サリ・ノヤンSali)とテグデル(Takudar)を宮廷呼び戻し仏教徒の長オトチをカシミールダルガチ任命した。しかし、カシミールの王はオトチをシュリーナガルにて殺害してしまう。サリカシミール侵攻し、王を殺して反乱鎮圧し、その地方モンゴル帝国の支配下に置いたデリー・スルターン朝王子、ジャラールッディーン・マスウード(※ホラズムジャラールッディーンとは別人)は1248年モンゴルの都カラコルム訪れ、モンケ・カーンの援助の下で兄から王位奪おうとした。モンケカーン即位した時、ジャラールッディーン・マスウードは戴冠式出席しモンケ援助求めていた。モンケサリに、ジャラールッディーン・マスウードを助け父祖王国取り戻させるよう命じたサリ引き続きムルターンラホール攻撃したヘラート属国マリクであるシャム・アッディーン・ムハンマド・カートはモンゴル軍付き従ったジャラールッディーンラホールとクジャーとソドラの従属君主任命された。1257年シンド知事彼の全州モンケの弟フレグ差し出しデリー君主からの保護求めたフレグはサリ・バハドゥル(Sali Bahadur)に大軍率いさせシンドに向かわせた。1257年冬から1258年初めにかけて、サリ・ノヤンSali Noyan)はシンド押し寄せムルターン武装解除した彼の軍勢はまた恐らくインダス川のバクーカルに城塞を築かせた。 しかしフレグデリー・スルターン朝への大規模な侵攻認めず数年後両者の間で講和結ばれたフレグはむしろシリア南西アジア征服注力していた。モンゴル大規模なインド侵攻中断されその間デリースルターンムルターンウチUch)、ラホール等の国境の町復興させ、ホラズムモンゴル侵略手を貸した地元ラナRana)とライ(Rai)たちを処罰したモンゴル侵略結果多く部族デリー・スルターン朝逃げ込んだため、北インドパワーバランス変動したハルジー族はデリースルタンから権力奪いインド他の地方にも急速に勢力広げていった。そのような中、1300年モンゴルのインド侵攻も再び始まった

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