モンゴルのカシミール征服とデリー・スルターン朝との抗争
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「モンゴルのインド侵攻」の記事における「モンゴルのカシミール征服とデリー・スルターン朝との抗争」の解説
数年後の1235年、別のモンゴルの部隊がカシミール地方に侵入し、数年間ダルガチ(行政長官)を駐在させてモンゴルの支配下に置いた。 同時に、カシミールの仏教徒の長であったオトチ(Otochi)とその兄弟ナモ(Namo)はオゴデイの宮廷に赴いた。また、別のモンゴル帝国の将軍パクチャク(Pakchak)はペシャーワルに侵攻し、ジャラールッディーンの下を去った後もモンゴルにとって脅威となっていたペシャーワルの各部族を打ち破った。主にハルジー族の敗れた人々はムルターンへと逃れ、デリー・スルターン朝の軍隊に登用された。1241年冬、モンゴル軍はインダス渓谷へと侵入しラホールを包囲した。1241年12月30日、モンゲトゥ(Munggetu)指揮下のモンゴル軍はラホールで虐殺を行ったが、デリー・スルターン朝からは撤退した。 オゴデイ・カーンが亡くなったためであった。 カシミールは1254年から1255年にかけて反乱をおこした。1251年に即位したモンケ・カーンは将軍サリ・ノヤン(Sali)とテグデル(Takudar)を宮廷に呼び戻し、仏教徒の長オトチをカシミールのダルガチに任命した。しかし、カシミールの王はオトチをシュリーナガルにて殺害してしまう。サリはカシミールに侵攻し、王を殺して反乱を鎮圧し、その地方をモンゴル帝国の支配下に置いた。 デリー・スルターン朝の王子、ジャラールッディーン・マスウード(※ホラズムのジャラールッディーンとは別人)は1248年モンゴルの都カラコルムを訪れ、モンケ・カーンの援助の下で兄から王位を奪おうとした。モンケがカーンに即位した時、ジャラールッディーン・マスウードは戴冠式に出席しモンケに援助を求めていた。モンケはサリに、ジャラールッディーン・マスウードを助け父祖の王国を取り戻させるよう命じた。サリは引き続きムルターンとラホールを攻撃した。ヘラートの属国のマリクであるシャム・アッディーン・ムハンマド・カートはモンゴル軍に付き従った。ジャラールッディーンはラホールとクジャーとソドラの従属君主に任命された。1257年、シンドの知事は彼の全州をモンケの弟フレグに差し出し、デリーの君主からの保護を求めた。フレグはサリ・バハドゥル(Sali Bahadur)に大軍を率いさせシンドに向かわせた。1257年冬から1258年初めにかけて、サリ・ノヤン(Sali Noyan)はシンドに押し寄せ、ムルターンを武装解除した。彼の軍勢はまた恐らくインダス川のバクーカルに城塞を築かせた。 しかしフレグはデリー・スルターン朝への大規模な侵攻は認めず、数年後、両者の間で講和が結ばれた。フレグはむしろシリアや南西アジアの征服に注力していた。モンゴルの大規模なインド侵攻は中断され、その間にデリーのスルターンはムルターン、ウチ(Uch)、ラホール等の国境の町を復興させ、ホラズムやモンゴルの侵略に手を貸した地元のラナ(Rana)とライ(Rai)たちを処罰した。 モンゴルの侵略の結果、多くの部族がデリー・スルターン朝に逃げ込んだため、北インドのパワーバランスが変動した。ハルジー族はデリーのスルタンから権力を奪い、インドの他の地方にも急速に勢力を広げていった。そのような中、1300年、モンゴルのインド侵攻も再び始まった。
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