モンゴルのルーシ侵攻以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 16:08 UTC 版)
「スラヴ民族の北東ルーシへの移動」の記事における「モンゴルのルーシ侵攻以降」の解説
「ロシア正教会の歴史#キエフ及び全ルーシの府主教座の北東ルーシへの移転」も参照 モンゴルのルーシ侵攻の後、13 - 14世紀の境目の時期に、南ルーシの旧諸公国(キエフ公国、チェルニゴフ公国など)領から北東ルーシへの、上流階層を含む人々の移住が行われた。この時期に北東ルーシへ移住した貴族の家系としては、プレシチェエフ家(ru)、イグナチエフ家(ru)、ジェレブツォフ家(ru)、ピャトフ家(ru)などが挙げられる(たとえばプレシチェエフ家の場合、チェルニゴフからモスクワヘ移住)。また、1299年には、キエフの府主教(キエフと全ルーシの府主教(ru))であるマクシモス(ru)が、キエフからウラジーミルへと移り住んだが、それはおそらく、北東ルーシの荒廃は南ルーシに比して相対的に小規模であり(ルーシ全土から見れば、北東ルーシは南ルーシと並び甚大な被害を蒙った地域であった)、南部より早く復興が行われたためではないかとする説がある。 以降、北東ルーシの地ではモスクワ大公国が興隆し、ロシア・ツァーリ国、ロシア帝国へと変遷していくことになる。
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