モンゴルの侵攻とその支配とは? わかりやすく解説

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モンゴルの侵攻とその支配

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:30 UTC 版)

グルジアの歴史」の記事における「モンゴルの侵攻とその支配」の解説

モンゴルのグルジア侵攻」も参照 タマル女王死後のグルジアホラズム・シャー朝の軍による侵入受けたモンゴル高原では13世紀初頭テムジンチンギス・ハン)がモンゴル帝国建国し、1220年ホラズム征服したチンギス・ハンの命を受けたスブタイジェベホラズム第7代スルターンムハンマド2世アラーウッディーン・ムハンマド)を追撃している途上カフカス地方通過したグルジア軍モンゴル軍遭遇し打ち負かされた。翌1221年、スベタイ・ジェベ軍2万グルジア王国を再び攻撃したが、タマルの子ギオルギ4世英語版)は第5回十字軍への支援取りやめ、それに先立ってアゼルバイジャン・メソポタミアとの同盟計画したものの不発終わり国を挙げて抵抗した敗北した。この2つ戦いは、キリスト教文明属す地域モンゴル軍からの猛攻受けた最初であった。コトマン川に面したクーナンの戦いでもグルジア・アルメニア軍は壊滅した。ギオルギ4世3度戦って3度敗れ緒戦負った胸の傷がもとで1222年31歳死去した1223年、ギオルギ4世の妹ルスダングルジア王位継承したが、彼女に国政経験がなかった。 女王ルスダン当時ローマ教皇ホノリウス3世にあてた書簡なかにはモンゴル人たちをキリスト教徒あるかのようにみなす記述がみえる。それは、彼らがムスリム勢力激しく戦ったからであったが、やがてそうではないことがしだいに明らかになっていったモンゴルカフカス北へ去ると、いったんインド方面逃れた第8代スルターンムハンマド2世の子ジャラールッディーン・メングベルディー中央アジア帰還し1225年以降アゼルバイジャングルジア王国への遠征乗り出した1226年グルジア王国首都トビリシはかれによって占領され灰燼に帰したジャラールッディーンはこのとき自らを「イスラム世界防衛者」を称している。 1236年ジョチの子バトゥによるヨーロッパ遠征バトゥの西征)が始まったチョルマグン率いモンゴル軍が再びグルジア侵攻しルスダン女王グルジア西部クタイシへの避難余儀なくされた。東部抵抗続け貴族多く滅ぼされ残った者はモンゴル臣従貢税支払ったモンゴル軍リヒ山脈越えなかったためグルジア西部被害少なくルスダンはようやく危機脱したその後女王ローマ教皇グレゴリウス9世支援求めた失敗し1243年モンゴル軍3常駐するなかグルジアモンゴル併合され、その属領となったモンゴルは、「グルジスタン州」を置き、そこにグルジア南カフカス全域管掌させ、グルジア王国領主たちを通じて間接統治おこなったホラズムモンゴル侵入が始まるとザカフカス地方他の地域から孤立したため、氏族社会のスヴァン族では内部氏族抗争激化した。スヴァン族の住む山麓地方スヴァネティモンゴル軍おとずれることは少なかったが、要塞内部抗争のためにさらに軍事性を強め集落ごとに礼拝堂建てられるようになった内部抗争王族も同様であった1245年女王ルスダン死去した。それに先立って彼女の甥にあたるダヴィド7世(英語版ウル女王対し王位自分委ねるよう要求していたが、ルスダン息子ダヴィド6世(英語版ナリン王位後継者として認めるようモンゴル帝国はたらきかけていた。 1246年カラコルム開かれたモンゴル帝国第3皇帝グユク即位式には、皇帝一族直属軍の首領モンゴル中国軍政民政における長官ペルシア総督などに加えウラジミール大公ヤロスラフ2世ルーム・セルジューク朝スルタンの弟、アルメニア王代理などをはじめとする周辺諸地域王侯貴族集まったが、そのなかにはグルジア王座争っていた2人ダヴィドの姿もあった。グユク・ハンは1247年グルジア王国を東半部と西半部に分けダヴィド7世ウルには東部カルトリを、ダヴィド6世ナリンには西部のイメレティをあたえ、2人共同王として公認したナリンはみずからの国のためにウル臣従を誓わなければならなくなったダヴィド7世ウル当初モンゴルによるアラムト(現、イラン攻略助力するなど親モンゴル姿勢鮮明している。 1256年グルジアモンゴル帝国差配のもとイルハン朝支配下入ったイルハン朝は、トゥルイの子フレグホラズム地方根拠建国したモンゴル地方政権で、1258年にはアッバース朝攻撃してバグダード陥落させた。1259年から1260年にかけて、ダヴィド6世ナリン率いられグルジア貴族たちは、モンゴル勢力叛旗ひるがえしモンゴル統制下のグルジアから西部のみイメレティ王国英語版)として独立することに成功したダヴィド7世ウルナリン起こした反乱参加しようとしたが、ゴリ付近戦闘敗退し再度モンゴル支配受け入れることになった1261年以降は、コーカサス地方イルハン朝サライに都を置くもう一つモンゴル帝国、すなわち、低地ヴォルガ川地方成立したジョチ・ウルスとの間で引き起こされ一連の紛争舞台となった一方、イメレティを制圧しようとしたモンゴル軍1261年グルジア南部要塞占拠断念してこれをグルジア側に返還1262年ダヴィド6世はモンゴル講和している。こうして東グルジアイルハン朝藩属国となったのに対し西部のイメレティ地方はバグラト朝の傍系のもとにかろうじて独立保った東グルジアデメテル2世英語版)はイルハン朝分断する密計立てたが、アルグン対す謀反疑われ陰謀頓挫し処刑された。その後も反モンゴル闘争ダヴィド8世英語版)によってつづけられている。 遊牧国家であるイルハン朝では税務行政上の首都マラーガタブリーズソルターニーイェ遷る)と重要地点とを結ぶジャムチ制度整備され東部要地トビリシも「シャーフ・ラーフ(王の道)」と称する交通網一つ終点として重要な役割になったグルジアゴリには重臣トカルの領地西南グルジアアルダハン(現、トルコ領)にはフレグの妻の領地があった。ハン首都には常駐せず、国家の重要行事はむしろ行在所多くひらかれた。なお、トビリシのメティヒ教会英語版)は5世紀創建と伝わるが、中世にあってはシルクロード往来する隊商が安全を求めて逃げ込む砦の役割果たしていた。この教会チョルマカン侵入の際に破壊され往時遺構はすべて失われしまっていたが、1289年デメテル2世によって再建された。 モンゴル支配下では、貢納はきびしかったものの一定の自治あたえられ、またモンゴル人たちは宗教に対して概して寛容政策採用しイスラームネストリウス派、ルーシ・グルジアの正教はむしろ民衆統治役立てられた。これを形容してパクス・モンゴリカパクス・タタリカ)」すなわち「モンゴルの平和」と称することがある運輸交通上の変革としては、1260年以降ジェノヴァ共和国ビザンツ皇帝ミカエル8世パレオロゴスとの条約によって黒海ジェノヴァ商船隊乗り入れ実現したクリミア半島フェオドシヤアブハジアのスフィミは港湾として発展し、そのあいだの黒海沿岸には40ものジェノヴァ商館設けられた。西欧からカフカス地方もたらされる商品には木綿、綿、ビロード絨毯ヴェネチアン・グラス石鹸乳香、塩、生姜刀剣などがあり、カフカスからの輸出品には塩干イクラ毛皮コムギ蜜蝋ワイン果実木材、「奴隷」などがあった。ジェノヴァ商人とともにローマ・カトリック教会宣教師訪れトビリシには伝道常駐地方本部もあった。 モンゴルの支配長くつづいたが、「光輝王」と呼ばれたギオルギ5世英語版)が現れ東西分裂していたグルジア再統一し、ようやく1335年モンゴル勢力放逐して事実上独立果たした。ただし、翌年1336年にはトビリシ黒死病ペスト)が大流行し王国大被害こうむったまた、ギオルギ5世再統一イルハン朝宰相チョバン助力得てグルジア王統独立保持反対する国内勢力取り除くことができたためであったその後グルジアモンゴルをその起源とするジャライル朝チョバン朝影響にあった

※この「モンゴルの侵攻とその支配」の解説は、「グルジアの歴史」の解説の一部です。
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