モンゴルの復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 04:43 UTC 版)
オルク・テムルはウスハル・ハーン以来の非オイラト集団から擁立されたハーンであったが、クビライ家から見てアリク・ブケ家以上に縁の遠いオゴデイ家の出身であり、広くモンゴル人の支持を得ていたわけではなかった。このような事情を察知した明朝は、「オルク・テムルは位を奪ってハーンを称したが、彼は元という国号を使わず、韃靼(タタール)と称すようになった」とも記している。しかし、この後もモンゴル人自身はあくまで自らの国号を「大元(ダイオン)」或いは「モンゴル・ウルス」と認識しており、「韃靼」という名称は明朝からの一方的な呼称に過ぎない。 オルク・テムルの即位と前後して靖難の変を制して正式に即位した永楽帝は永楽元年(1403年)、使者を遣わしてオルク・テムル・ハーンを諭して好を通じ、銀幣を賜わった。この時下賜品を与えられたモンゴルのトップは「オルク・テムル・ハーン(韃靼可汗鬼力赤)」、「太師右丞相マルハザ(馬児哈咱)」、「太傅左丞相イェスンテイ(也孫台)」、「太保枢密知院アルクタイ(阿魯台)」の4人であり、この時の「韃靼」とはオルク・テムルとイェスンテイの勢力(オゴデイ家)と、マルハザとアルクタイの勢力(故トグス・テムル直属の勢力)の連合政権とも呼ぶべきものであった。 同年、オルク・テムル・ハーンとアルクタイは軍を率いてチョロース部のマフムードと戦ったが、オルク・テムルらはマフムード率いるオイラト軍に大敗し退却を余儀なくされた。モンゴル高原の情勢が不穏になってきたことを察知した永楽帝は北辺の守将たちに命じて、オルク・テムル・ハーンに備えさせた。また、永楽2年(1404年)にもオルク・テムルはオイラト軍に敗北したため、早くもモンゴル内の内部対立が露見するようになった。 永楽3年(1405年)、オルク・テムル・ハーンはウリヤンハイ三衛(テムゲ・オッチギンの末裔)や哈密衛(チャガタイの末裔)がモンゴル帝国の皇族の末裔でありながら明朝に服属することを不快に思い、彼等を服属させんと動向を窺っていた。そして同年、エンケ・テムルはハミルへの進出を窺うオルク・テムル・ハーンによって毒殺されてしまった。これを受けて、ハミルの隣国モグーリスタン・ハン国のシャムイ・ジャハーンは報復としてオルク・テムルを攻めている。同年、掃胡児とチャガン・ダルガ(察罕達魯花)が明に降る。 永楽4年(1406年)には、オルク・テムル・ハーンらが南下して明朝へ侵攻しようとしていたことが永楽帝に報告されている。 永楽6年(1408年)、アリクブケ家のオルジェイ・テムルが亡命先のティムール朝から帰国すると、アルクタイはオルク・テムルを殺害し、オルジェイ・テムルを帝位につけた。
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