モンゴルの侵攻と戦死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 05:14 UTC 版)
「ヘンリク2世」の記事における「モンゴルの侵攻と戦死」の解説
ヘンリク2世にとって難しい時期は去ったかに見えたが、最悪の出来事はその後にやって来た。東方からモンゴル帝国が迫ってきたのである。 バトゥに率いられたモンゴル軍はルーシ人達を打ち破ってキエフ大公国で破壊の限りを尽くした後(モンゴルのルーシ侵攻)、ハンガリーを次の標的として西に攻めのぼってきた。バトゥは賢明にもハンガリーと戦うためにはまずポーランドを征服せねばならないことを理解し、兄オルダ指揮下の1万人の兵をポーランドへと差し向けた(モンゴルのポーランド侵攻)。 1241年1月、バトゥはルブリンとザヴィホストに斥候を派遣したが、攻撃はその1か月後に開始された。マウォポルスカではモンゴル軍の敵はいないも同然で、2月13日のトゥルスコの戦い、3月18日のタルチェクおよびフミェルニクの戦いで敗れたサンドミェシュの貴族のほとんどが殺され、犠牲者の中にはクラクフ宮中伯ヴウォジミェシュ、城代クレメント・ス・ブジェジュニツァなどがいた。この直後、クラクフとサンドミェシュを含むマウォポルスカ全域がモンゴルの支配下に置かれた。 ヘンリク2世は西側諸国から約束された援助を待つことなく、レグニツァの地点で敵を迎え撃ってマウォポルスカの残党と自らが擁するシロンスク及びヴィエルコポルスカの軍勢を保持する作戦に集中することにした。ヨーロッパ諸国の統治者達は皇帝と教皇の争いに関心を集中させており、ヘンリク2世の救援要請を無視していた。外国から加勢しにきた軍隊はヘンリク2世の義弟であるヴァーツラフ1世率いるボヘミア軍及びテンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団の混成軍だけだった。最終的に彼らの軍勢はレグニツァ近郊で進軍を止めたが、ここでは簡単にモンゴル軍の餌食となってしまう恐れがあった。1241年4月9日のレグニツァの戦い(ワールシュタットの戦い)において、ヘンリク2世は大敗を喫し、戦闘中に殺された。 この敗北は、支援を断ったヨーロッパの諸王達と、予期せぬ敵陣逃亡で面目を失ったオポーレ=ラチブシュ公ミェシュコ2世に対する轟々たる非難を巻き起こした。ヘンリク2世の死について書き残したのはヤン・ドゥゴシュと『タタールの歴史(Historii Tartatorum)』の作者C・ド・ブリギアの2人であるが、前者の記述は現在では疑われており、直接戦いの当事者に取材した後者の記述の方がより信頼されている。 ポーランドにとっては幸運にも、モンゴル人はポーランドに対する占領支配を意図しておらず、彼らはレグニツァの戦いの直後にハンガリー領モラヴィアに移り、そこでバトゥの率いる本隊との合流を待った。ヘンリク2世の死体は首を引きちぎられていたうえ全裸に剥かれており、未亡人アンナだけが身体上の特徴から夫を識別することが出来た。ヘンリク2世の左足には指が6本あったのである(多指症)。この事実は1832年、ヘンリク2世の棺が開かれた時に確認されている。遺体はヴロツワフにあるフランチェスコ会の聖ヤクプ教会に埋葬された。 僅か3年間の短い治世だったにもかかわらず、ヘンリク2世はヴィエルコポルスカとクラクフの人々に理想的なキリスト教徒の戦士・領主として記憶された。しかし、その華々しい経歴は早すぎる死によって断ち切られた。死後、遺領は長男のボレスワフ2世が継承したが、後に他の息子達との戦争に敗れて領土を分割、シロンスク・ピャスト家の領土は小規模な国家群(シロンスク公国群)に分かれてしまった。
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