モンゴルのルーシ侵攻以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 16:08 UTC 版)
「スラヴ民族の北東ルーシへの移動」の記事における「モンゴルのルーシ侵攻以前」の解説
「キエフ大公国#衰退と国家の解体」も参照 リューリク朝によるキエフ大公国成立の後も、キエフ大公国領(ルーシ)内部での人口移動が行われ、北東ルーシは人口の流入する地域であった。流入元は、1つはノヴゴロド・ベロオゼロ・ラドガ等の都市を中心とした北西ルーシ地方である。流入の理由は、北西ルーシに比して温暖であり、農業・牧畜・採集の成果が見込まれる北東ルーシに期したものである。もう1つはキエフなどの南東ルーシである。12世紀から13世紀にかけて、キエフなどの南東ルーシから、北東ルーシへの大規模な人口の移動が行われた。その理由として、キエフ大公位をめぐる紛争の激化、ステップの遊牧民の襲撃の増加(年代記には、13世紀初めまでに、ドニエプル川流域(ドニプロ・ウクライナ)へのポロヴェツ族の襲撃が、46回記録されている。)、コンスタンティノープルの凋落と遊牧民勢力の増強による、経ドニエプル川交易の衰退(ヴァリャーグからギリシアへの道#歴史参照)が挙げられる。南東ルーシは、その南部に遊牧民族との争いの危険性をはらんでおり、また西部では、ポーランド王国との国境線がしばしば引き直される(チェルヴェンの諸都市参照)などの不安定な要素をはらんでいた。一方北東ルーシは、ヴォルガ・ブルガールとの国境線には接していたが、外部からの侵略という面では安全な地域であった。なお、キエフ大公国成立当初には、北東ルーシに比べ、南東ルーシ・北西ルーシが先に発展していた地域である。 また、年代記は、キエフ大公ウラジーミル・モノマフ治世期の、「プリャモエジャヤ・ドロガ(直訳:まっすぐな道)」の出現を記している。この道は、北東ルーシから、ブリャンスク森(ru)を横切りキエフ地域へ至る道であり、それ以前から存在していた、連水陸路を含むドニエプル川・ヴォルガ川沿いの道に比べ、南東ルーシのキエフ地域と北東ルーシのウラジーミル・スーズダリ地方との直接な交流を大幅に促進した。この人口移動は、北東ルーシにおいて、防衛施設と軍隊を持つ都市の建設につながった。殖民を奨励し、新しい都市の建設に積極的に取り組んだ為政者の一人として、ウラジーミル・モノマフの息子のロストフ・スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキーが挙げられる。ユーリーの子のウラジーミル大公アンドレイ・ボゴリュブスキーもまた、その殖民政策によって賞賛を得ている。
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