人口の移動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 06:04 UTC 版)
「モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻」の記事における「人口の移動」の解説
研究によれば、この征服活動でヴォルガ・ブルガールの人口の8割が殺されたというものもある。残った人口の多くは北へ移動した。 ヴォルガ・ブルガールの生き残った農民たちは、ステップ地帯を離れて移住させられ、多くの人々がウラル山脈から流れるヴォルガの東側の大きな支流カマ川沿い、およびその北方の土地(現在のチュヴァシ共和国およびタタールスタン共和国の範囲)に移住した。マリ人がしばらく前から住んでいたヴォルガ川とカザンカ川合流点のカザン周辺も、新しいブルガール文化の中心となり、後にカザン・タタールの人口の中心となった。これらの土地にブルガール人の公国が建てられ、自治を行うこととなった。 こうしてカザンおよびチャル(Çallı)がブルガールおよびタタールの新たな政治と交易と手工業の中心になり、モンゴル統治下の東西交易や農産物の集散で栄えるようになった。職人の多かったブルガール人の中には、ジョチ・ウルスの首都サライに移住させられた者もあった。 モンゴル襲来以前の都市のすべてが廃墟になったわけではなく、ブルガールやジュケタウなどの都市も再建され交易の中心となったものの、往時の人口や繁栄は取り戻せなかった。ブルガール人が住んでいたステップ地帯には、キプチャク人やモンゴル人などの遊牧民が代わって移り住み、農業は衰退した。
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