人口の移動と公民権運動、1945年から現在
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「フロリダ州の歴史」の記事における「人口の移動と公民権運動、1945年から現在」の解説
フロリダ州の人口は急速に変化してきた。第二次世界大戦後、空調と州間高速道路システムで北部からの人の流入を促進しフロリダ州は変わってきた。1950年、フロリダ州の人口は全国で20番目だった。50年後にはそれが4番目になった。低い税率と暖かい気候のお陰で、フロリダ州は北東部や中西部およびカナダで現役を引退した者の多くの目的地となった。 1959年のキューバ革命で、南フロリダに大きなキューバ人移民の波が訪れ、マイアミはあらゆるラテンアメリカにとって商業と金融と交通の主要中心となった。ハイチや他のカリブ海諸国、および中米や南米からの移民は今日でも続いている。 南部の他の州と同様に、フロリダ州には公民権運動で活動する多くの黒人指導者を輩出した。1940年代と1950年代に新しい世代がこの問題に関する活動を始めた。ハリー・ムーアはフロリダに全米有色人地位向上協会を造り、急速に会員を拡大して1万人の大台に達した。フロリダ州の選挙権法はジョージア州やアラバマ州のそれほど厳しくはなかったので、黒人有権者登録でいくらか成功を収めた。1940年代に黒人有権者登録を済ませたのは資格のある年代でみると5%から31%にも増加した。 州内には黒人を攻撃し殺害するという点で変化に抵抗する白人集団がいた。1951年12月、活動家ハリー・ムーアとその妻ハリエットの家に悪名高い爆発事件が起こり、二人とも爆発で負傷したことが原因で死んだ。当時この殺人事件は解決されなかったが、2006年の州政府の捜査で、彼らはクー・クラックス・クランの独立した一派によって殺されたと報告された。1951年から1952年のフロリダ州では黒人に対する多くの爆発事件があった。 州内人口は新しい集団の流入によって著しく変化したが、同時に20世紀初期の大移住期の間に4万人の黒人が北部に流出した。1960年時点でフロリダ州の黒人人口は880,186人となっていたが、州人口の18%にしか過ぎなかった。これは1900年よりもかなり少ない数字であり、1900年の国勢調査に拠れば、黒人人口は州内人口の44%であったが、その絶対数は231,209人であった。19世紀以降、教育を受けた黒人中産階級が多くの都市で発展した。黒人はフロリダや他の州の指導層によって、あらゆる市民の投票権を保護する1964年の公民権法および1965年の選挙権法の国民的支持を得、立法化させた。 これらの法成立後、南部の黒人や他の少数民族は投票を始め、政治の世界にフルに参加し始めた。
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